昨晩の日記では匂わせる程度に留めておいて、ちゃんと報告ツイートを投稿するのは文學界のTwitter アカウントで告知されるのを待とうと思っていたのに、タイムラインにミシバーヴ・ユヨシベールさんのアイコンがあるのを見て、「四月号の表紙はフローベールだ!」とつい呟いてしまった勢いでけっきょく告知を先走った。発売日が来てこの目で掲載を確かめるまではまだ半信半疑でいるのだけど、河村書店さんという方のツイートに
【3/5発売予定】『文學界4月号』筒井康隆 水原涼 三木三奈 加納愛子 蓮實重彦 佐々木敦 小松理虔 村田沙耶香 川瀬慈 柿内正午 藤原無雨 髙松夕佳 吉田靖直 宮崎智之 江南亜美子 北村匡平 ブレイディみかこ 木村衣有子 犬山紙子 柴田聡子 武田砂鉄ほか
河村書店 @consaba
こうあって、「ほか」に括らずに明記してくれたことが嬉しくて、わあ、載るんだ、載ることがちゃんと認められたんだ、というような感慨が急にやってきた。こういう実感の遅れというのは面白いものだった。じっさいに実物が届いたら有頂天になるのだろう。
あと、岸波さんが『プルーストを読む生活』の書評を書いてくださって、書評を書かれるというのは本をひとりで作ったころからのひとつの大きな願望だったのでこれも嬉しくて元気が出た。合本版はでかいからどうしてもプルーストと同じような鈍器を攻略するマッチョな悦びみたいなものが想起されてしまうかもだけれど、こんなに軽佻浮薄な本もないというか、個人の日記に文学的重厚さなどあるわけもなく、この本に情報として読み手に受け渡すものがあるとするならば「読書って最高だな」ということだけであって、この日記本自体も読んでいるあいだ楽しいということ以外に特に何もないはずだ。そんな日記本を読んでいるうちに、もっとほかに読みたい本がたくさん出てきちゃったな、というように、放り出されても構わないというか、そういうふうにどんどんと読む喜びを増幅させるきっかけに『プルーストを読む生活』がなれたならこんなに嬉しいことはないとは思っている。だからこの本の大きさはかえってこの本がお手伝いできそうな人を遠ざけてしまいかねなくて、だからこそ形をデザインするとき中村さんはこの本にどう「軽さ」を付与するかに苦心してくださったのだと思う。『プルーストを読む生活』は、実は、最近本が読めてないな、という人にこそおすすめの一冊なのです。ちゃらちゃらした文章をへらへら読んでいるうちに、読書に対する気遅れだったり億劫さを軽減したり、読書する喜びを思い出したりできる本になっていると、自負しております。突然の宣伝でした。
そういう喜ばしさがありつつも、春の気圧の乱高下で情緒も乱高下していて、寝覚めの夢見からしてぺしゃんこになるまで何度も車に轢かれるというもので非常にぐったりしていた。
本でも読まなきゃやってられん、と思い、仕事の合間に読み終えた『藤田省三セレクション』はいま読みたかったことが書いてあってだいぶ興奮した。安易な要約に抗うというか、安易にようやくする態度を戒める藤田に反するようだが、全編に通底する気分を抽出するならば経済論理に塗りつぶされた「自分の特殊的利益を無条件に前提する自己中心的思考」をいかに脱し、「自分をも函数と見做す普遍的な見方」に至るかという悪戦苦闘だと感じる、というかそう感じるように編まれている。
こうして私たちは、真なるものと偽りなるものとの質的な違いを発見しようとする限り、「解答」の世界への警戒と「問題」の分野の重視へと導き入れられることとなる。それがどんなに拙ない形を採り、どんなに混乱した筋道の中に在り、どんなに醜い外貌を持って矮小な姿で現われようとも、そのゲテモノの中に、今日の私たちを取り巻き且つ貫いている問題群が影を落しているならば、その影から発する微かな光を見逃がしてはならないのである。落魄せるものの中にはしばしば重大な変化の本質的真実が歪められた形を持って存在している。そしてその形とその核心との交錯した関係こそが「問題」中の「問題」なのである。廃たれ行くもの、零落し粉砕されて断片と化したもの、「灰の中に輝きもせず横死するダイヤモンド」にありったけの眼光を注ぎ込んで、その質を見極めようとしないところには、真偽の別は遂に分らず、現代の根本的な危機性もまた見過ごされて了うことであろう。そこには「処方された幸福」を「自から開発した幸福」と取り違えてベンベンと満足の日を送る精神の死骸が残らざるをえないであろう。
市村弘正編『藤田省三セレクション』(平凡社) p.372-373
そうして、生活形式における「処方された幸福」への満足が対応する認識論上の方法が、無警戒な「解答」主義なのである。それは先ず、反省的検討を経ることなき「体系性」の偏重となって現われる。真実かどうかは別として、一つ一つの事実を、決められた秩序形式に従って巧みに円環的「体系」へとつなぎ合せて「閉じられた王国」を完結的に作り上げるテクノロジーの世界がそこには在る。一つ一つの事実は確かなものであっても、それらが一つ一つにおいて含み込んでいる問題は押しならされて、快適な「公道」がその国をつなぎ合わせるのである。あたかも「帝国」の建設のように。その「つなぎ方」の妙を通して、その中央への連絡道路の美しさと高速度と運搬効率とによって、人はいとも簡単に「中央」へと連れ込まれる。こうして、無反省な「体系性」の偏重が在る処には虚偽意識の発生がつねに可能となる。其処には「問題」への忠実に代って「解答」への陶酔が支配しているからである。真と偽の質的区別はここでは全く忘れ去られて虚偽意識の連絡網の中に満足気に安住する。
この箇所を読んでいて、なんで日記だけでなくポッドキャストまでやってんだろ、承認欲求とかもう枯れてそうなものなのにまだ誰かに構ってもらいたいわけ? とか自分で自分を揶揄するような気持ちがずっとあったのが少し晴れたように思って、僕は失敗したいし、聴きたい、というのがポッドキャストの動機のようだった。「処方された」ものでなく、どんなに拙い「ゲテモノ」であろうとも、「自から開発した」ものを持っていたいという悪あがき。きれいに体系化できないどころか「混乱した筋道の中に在り、どんなに醜い外貌を持って矮小な姿で現われようとも」、そこに自分の生活という極小から社会という極大に通じるなんらかの「問題」の種がうっかり含まれていたらいいなという気持ちで、特にまとまりもなく、結論も情報もなく、だらだらした雑談に過ぎないようなものを日記だとかポッドキャストだと言い張って出しているのだろう。
僕だけでやってしまうと、狭量な個人の妄言の垂れ流しに過ぎないが、ポッドキャストは主に奥さんが付き合ってくれる、奥さんはとにかく「社会」というものの実在を信じないから、上述のような僕の目論見はそもそも失敗に終わることの方が多い。それがいい。この日記のように文字だけであれば僕は僕の目論見を僕として完遂できるが、わざわざおしゃべりという他者を巻き込んだ形でやることが計画通りに進んでしまってはそれこそ全体主義的予定調和でしかない。藤田の「自分をも函数と見做す普遍的な見方」というのは、予想外の物事との遭遇という不快を忌避し絶対的なものとしての自分へと自閉する「安楽への自発的隷属」への誘惑を毅然として退ける態度のことだ。自分の予想や予測通りにならない物事との交渉を最小化してはいけない。そういうコントロール不可能な他者との対立的な──競争的とは明確に違う、そもそも前提としているルールから異質なのだから──交渉をすることに開かれていなくては、社会というものは幼稚なものに留まり続けるだろう、そう藤田は書き続けた。社会とは、本来お互い相入れない他者たちの、緊張のうえに築かれる均衡のことであって、擬制された同一性のことではない。
とはいえ僕と奥さんは十分似た者同士であろうから、ポッドキャストにはもっとゲストを招きたいし、お便りがどしどし欲しい。どうすればもっと、発信としてではなく、混乱をそのまま出すことや、人の話を聴くことに開かれたものとしてポッドキャストを作っていけるかというのが、ずっと僕の中で問題としてあるようだった。