2024.08.24

今晩は新文芸坐で「殺れ! 殺っちまえ!! 超覚醒! 殺戮のミア・ゴス劇場」オールナイト上映に行くつもり。たのしみ。明日は文化系トークラジオLife に出るわけで、二晩連続で夜明かしなのだが、そんな無茶、学生の頃でもできなかった。己の体力のなさをいつも悔しく思ってきたはずなのだが、僕以上に体力のない奥さんと暮らしたり、局所的に過活動気味になったりする自分の所業が繰り返されるのを見るに、どうやら、ないでもないのかもしれない。そもそも奥さんだって、自分はよわよわだと言い募るけれど、今晩オールナイトで映画を見た翌日に友人とランチして夜はライブに行くというのだから元気じゃんと思いかけるが、こういう瞬発的な無茶は命の前借りのような形でできなくはないものであるし、できたところでその後のダメージからの立ち直りが問題なのだと思う。ふたりとも来週はまるまる使い物にならないだろうから、やはり体力はないのだ。どこかでしっかり休まないといけない。

余白の少ないカレンダーを見ると暗澹たる気持ちになる。休める日がないような気分になる。週末に予定がみちみちだ。だいたい遊びの予定なわけだから自縄自縛なわけだけれども、忙しい、ような気がしてくる。忙しいというのは具体的にどういう状況なのだろう。じつはよくわかっていない。じぶんでコントロールできない用事に追われている状態のことだろうか。僕は忙しいというのをたぶんものすごく大変な状態のことだと考えている気がする。いつでも自分が一番ひまな気がしている。僕にとっては週に四日以上用事が入っていると忙しい気がするけれど、一日一日にはだいたいどこかにゆとりがあって、その時間に本を読んだりぼけーっとしたりスマホいじったりしている。そういう余白があればまだまだ忙しくない、と思っているようだ。真の忙しさとは、もうつねにタスクで頭がいっぱいで、ほかのことがなにもできなくなる状態のことだ、と。そのような状態になることをなにより忌避して暮らしてきた。だからカレンダーを見ると忙しいかもしれないと不安になって疲れるけれど、一日一日を過ごすときは、まだこれだけのゆとりがあるから大丈夫、僕はこれまでじっさいに忙しかったことなんかない、と安心する。つまり僕にとって忙しいとは遠くにあって予感するもので、近くに実感することはほとんどないものである。ほんとうは結婚直後の数年は労働に忙殺されていて、そのころは思考力や感受性が機能停止しかけていたから忙しいということを感知することがなかった。だから忙しいと感じたことはないというのは本当でもあるのだが詭弁でもある。忙しいとは心的機能の停止した状態のこと。もうああいうのはいやだった。

脱線してきたけれど、カレンダーで見ると一日単位のものが、一日ごとはどれだけ細分化しても十五分単位とかだ。休むというのは小一時間お風呂に入っちゃうとか、十五分ぼんやりするとか、そういうことでいいので一日まるまる空ける必要はない。最近このことに気がついて、けっこうな発見だった。それでも、やっぱりたまには温泉や高原に二泊とか三泊して心身をすっきりさせたいという夢想はある。あるけれど、じっさいそういうところに出かけていくとせっせと何か遊んでしまうのだとも思う。それはそれでいいから温泉とか高原に行きたい。

引き続きLifeのテーマについて考えている。長谷川さんが五十歳を迎えて考える、人生の後半戦について。僕は、年齢に限らず、この生はとにかく短すぎるか長すぎるかしかなく、前者の心配のほうが切実なのが「前半」で、後者の不安がひりつくのが「後半」なのではないかと考えている。そして、三十歳になるタイミングが新型コロナウイルスに対する緊急事態宣言下と重なったことで、ああ、ここからはもう下降の一途なのだ、とはっきりと折り返しを実感したように思う。そういう切り口でいえば三十前半のこの立場からも話せることがある気がする。発展していく、という見通しを信じられなくなってからの明日の捉え方。ああ、これはけっこうアクチュアルかもしれない。家を買って以来、いよいよこの生に「これ以上」を想像できなくなっているのだとこの数日ずっと書いているような気もするし。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。