ずいぶん元気を持ち直してきたから自己批判だってできる。キャパオーバーになったとき、不機嫌になるより先にめそめそするの、攻撃性が低くて悪くないような気がしてたけど、近くでめそめそされるのもじゅうぶんケアのカツアゲでありうる。お前はめそめそをカツアゲの道具としてないか。どうなんだよ。
いらいらして無言の圧で他人をコントロールするよりは、静かにぺしゃんこで横たわっているほうが無害ではあるだろう。静かで能動的でないぶん、無視して放っておいてもいい程度の不愉快で済むかもしれない。けれども、めそめそする側が、こうしていれば相手から助けてもらえると計算しているようなばあい、実態はあまり変わらない気がする。相手はめそめそしている姿を見たら、動いてしまう。そう確信している場合、めそめそは、不機嫌とは支配の形式が異なるだけで、望む通りの行為を引き出したいという欲望は同じなのではないか。
そんなことを考えている。僕がどうしても不機嫌であったとき、奥さんは僕を無視した。こんなやつにさくリソースはないとばっさり切り捨ててくれた。だからこそ、僕は不機嫌を抑え、そのような負の情動をすぐさましょんぼりに転嫁するように努めてきたが、これは全く利己的な戦術であった。家においては、いらいらよりもめそめそのほうが効果的であるからこそ、僕はすぐに横たわって動かないようになっている。
それが利己的であるからといって、全面的に悪いというわけでもない。利己的な動機が、結果として複数の人間にとって都合のいい結果に終わるのであればそれでいいのだ。動機はどうだっていい。行為だけが実態としてある。不機嫌よりぺしゃんこになっているほうがましであるのは確かだ。めそめそがほぼ確実に行為の要請として機能してしまうのがよくないのであれば、決してめそめそするな、とにかく人に弱みを見せるなというマッチョな抑制にいくのではなく、容易に放っておける、気が向いた時だけ助けたくなるようなめそめそのフォームを獲得するのがいいのではないかと思う。つまり、ほんとうにぺしゃんこになること。もうだめだというときは、黙って潰れたように横たわり、そのまま起き上がらないことだ。いや、それも違う気がするが。とにかく、さっさと諦めて寝たほうがいい。寝よう。もう無理だから。起きててもいいことないから。寝ちゃおう。そう思うことが増えてきた。一日が、長い。この自分という重荷を背負って歩くには、長すぎる。五時間くらいで休憩入れたい。昼寝させてください。そう思う。多少元気が出てきたからといって、このような気分はまだある。なんならクリアに言語化できるぶん、いっそう際立ってきているともいえる。際立っていたほうが、ぼんやりと重たいよりはましなので、はっきりくっきりしたそれは、もはや不安でも不調でもなく、ただそうあるものとして知覚されている。僕は僕に飽きてきている。なにか慣れないことを始めなくちゃいけない。日記を始めた時も、ポッドキャストを始めた時も、このような倦んだ気分に圧し掛かられていた。
別様な慣習をむりやりつくる。それに自分を似合わせる。気が付けばその慣習が自明のものになっている。そうやって、日々この「私」に微細なモデルチェンジを施すこと。そのようにしないと、面白がり続けることは難しい。自分で自分を消費している。おととい階段から落ちてつくった右腕の打撲痕は赤から紫へと黒ずんでいき、長引きそうなのは内側の痣よりも、むしろ表面の擦り傷であるとわかってきた。
そんなことより御徒町。味の笛と羊香味坊をはしご酒。奥さんとにこにこ飲んで、騒がしい店にお互いの声がほとんど聞こえないからウィンクで意思疎通をはかる。ごきげんで、ぺろおんぺろんになって帰宅。近所のコンビニでオルタナ旧市街さんがツイートしていた、ドールの「至福のマンゴー」を買って、〆に食べる。たしかにめちゃうま!