こうして早くも──分析は長かったのだが──作業二日目の昼、十二手目をもって第一期石組が終わった。
山内朋樹『庭のかたちがうまれるとき 庭園の詩学と庭師の知恵』(フィルムアート社) p.143
置かれた石がその形態の反復によってリズムを生み出し、空間の質感を変えていく。その感覚的な実作の理路をいちいち言語化していく試みはめっぽう面白く、こんど京都に行ったらこの補陀洛山觀音寺に庭を見に行ってみたいな、もちろんこの本を携えて、すぐれた映画批評はその映画を見る目をおそろしく研ぎ澄ますので、またその映画を見たくなる、庭もそうだったんだ、そううきうき考えていたら、施主である住職が、つくられつつある庭のリズムの起点の一つである石の形について、さりげなく懸念を示す。
この懸念を受けた古川は、第一期石組を終えた日からおよそ一週間後、作業六日目となる四月一五日から翌一六日にかけて、いま詳細に分析したばかりの変形三尊石をほとんど解体し、再構成してしまう。
なんということだ!
そう。わかってはいたものの、すべての石はまだ仮置きに過ぎない!
これまでに描いたスケッチやメモや写真がすべて意味をなくしてしまったような気分になる。これまでの分析はなんだったのか?
仮置きの石をいくら詳細に検討したところで、対象そのものがまた消滅してしまうかもしれない。
実際、この本を片手に現地を訪れても、ここまで執拗に分析してきた変形三尊石はもうないのだ。
完成した庭にその痕跡さえ残らない要素を検討することにいったいどんな意味があるのだろう?同書 p.144
なんてこった! 大笑いした。これまで百ページくらいつきあってきて、完成品を想像し、いつか見に行くことを計画し始めていた庭のかたちは、もうない!
しかしこのような反古にされる計画や素描の累積というのは、演劇の稽古場や、ものを書く現場でもありふれている。あらゆる完成品は無数の反故紙に支えられている。〈図面は設計者の着想を現場に流し込む鋳型ではありえない〉。〈それは打ち合わせのたびに変更され、施行が進展するなかでも書き換えられ、変容し続ける奇妙な対象〉である。設計書はそのとおりに実現されねばならない指示書であるという通年に反して、つねに曖昧さをのこし、現場の状況や、素材の都合や、施主の思いつきで何度も何度も訂正を重ねられていく。しかし、だからといって、直される前の設計書が無駄だったかというとそうではない。それらは〈その都度の基準(原文傍点)〉として、現場のコミュニケーションや行為の参照点として機能していたのだから。ちなみに作庭には設計書がないことが多いとのことで、ではなにが〈その都度の基準〉となるのか。それは偶々そこにある石や木の形態、地形の起伏、靴先で地面に引いた線、そしてそのつど打たれる石なのである。
いまの家のことを考える。リフォームの図面を書いてもらうとき、僕はなるべく計画の手戻りが少なくなるよう心を砕いていた。それこそ図面とは、〈設計者の着想を現場に流し込む鋳型〉だとどこかで思い込んでいたかもしれない。だから工事が始まってからも即興的に書き換えられていく図面に、完成品のイメージが追いつかない不安を覚えたりもした。先にこの本を読んでいれば、そのあたりもっと面白がれたかもしれない。べつに手遅れではなくて、この本を読みながら僕はすでにどこか遠い記憶になりつつある、半年以上の施主経験を読み替えている。それは心労も多かったけれど、やはり楽しかったような気がする。
