2024.09.20

ポッドキャスト『心の砂地#』の第69回「魂を売らない身体」を聴いて、『会社員の哲学』を書いているときに考えていたことなどを思い出していた。てらださんの「サラリーマンのもってるマッチョイズムを否定しながら(あえて)サラリーマンをやってる」「所属の外からの批判は簡単(さもある)」という発言、それを受けたシャークさんの「(わざわざおかしいところの内部にいるという)おかしさを指摘する人も必要」それでも「(おかしい場所で)現場から報告するスタンスを大事にしたい」という話を聞きながら、こういう態度こそ、当時の僕が抱いていたものだったな、と思いつつ、遠さも感じる。

いま、関心があるのは以下のようなことだ。まだうまく書けないから雑に列挙してみる。

・自分の好きだった作品や作家のいい仕事に惚れ込み、そこで提示される理想に追従した結果、新自由主義的でマッチョな能力主義に結果してしまう。やだ。

・「あえて」内部に入り込んだ組織や社会にベタに認められてしまったらどうすればいいか(結婚や出世など)。与えられてしまった報酬に報いなければみたいな義務感に突き動かされているうち、行為の面ではすっかりその共同体の有害な倫理観を体現してしまう。やだ。

・生活をやっているとどうしても保守に偏ってくる。生活は絶え間ない革新ではなくメンテナンスなので。やだ。

総じて、いま直面している課題は、たぶん以下のようなことだ。

「この社会おかしいじゃん」と声を上げるとき、その手段として自身の「持たざる者」性に依拠してきた。この社会でマジョリティ男性として加齢してきた結果、これまで糾弾してきた「持ってる」側になってきている(というかもともとそうだったのだが、ようやく言い逃れできなくなってきている)。結果として、社会の不平等や不正に対してどう声を上げればいいのだかよくわからなくなってる。どころか、過去の自分の発言や考えに、めっちゃ刺されてる。

もしかしたら、「持たざる者」的な方法でやってきた人が、何かしらの共同体から承認を得てしまったとき右傾化しがちなのは、これまでの自分の方法と現状との齟齬に耐え切れず、欺瞞のない言動を求める結果なのかもしれない。サラリーマンを堅実にやりつつ、「魂を売らない」でいるの、想像していたより難しいかも。

『会社員の哲学』では「そんなに頑張って働かなくていいじゃん」と書いた。ここには「どうせ自分のような人間は受け入れられないし、認められないのだから」という前提が隠されてはいなかったか。いま直面しているのは、承認の気持ちよさだ。あるいは、社会に包摂されていることの安心の実感だ。「魂」の居場所が定まることの愉悦だ。ある共同体に受け容れられ、認められているという実感があるとき、その共同体に資する行為の実行は、かなりの快感が伴うのだと思う。自己をある程度すてて、共同体の未来へと奉仕するというヒロイックな陶酔。僕はそういうのは好きではないとまだ言えるけれど、なんの役にも立っていないくせに、共同体から不当に利益を得ているというような気分にとらえられ始めている予感がある。あるいは、僕はどこかで、いい仕事への憧れがずっとあったのではないか? これは、FGO 奏章Ⅲのシナリオを読みながら、主に白野とBBちゃんのことを想ってべしょべしょに泣きながら、片隅でずっと考えていたことでもある。誰かの役に立つことの嬉しさが、いつのまにか個人を毀損する全体主義へと転んでしまう危うさ。

幼稚園より学校より家が好きだった。友人より両親が好きだった。会社よりも家がずっと好きだ。思えば、僕はつねに社会よりも個人の側に重きを置いていた。そして、個人の言動の自由が社会の側に制限されることを何より嫌い恐れてきた。そのくせ、いい仕事をすることへの憧れもなくはなかった。この「いい仕事をしたい」というそれ自体は素朴なエゴが、なぜかすぐに社会的価値に絡めとられていく不気味さ。金銭に象徴される社会の引力にあっさり負けそうな自分がいるからこそ、「世の中の大したことないものの総量を増やす」とか言ってるのだ。油断するといい仕事がしてみたくなっちゃうし、そうすると僕はあっという間に個人の生活を破綻させるだろうから。でも、そのようにして慎重に守ってきた生活のほうが、いつの間にか、いや、つねにすでに、社会というものによって規定され、保護されている。いい仕事よりもいい生活。それが社会から個人の領分を保護する戦術のつもりだった。でも実際は、それこそこの社会の現状を招く戦略そのものだったのではないか? 生活を大事にしながら、生活圏の外側の個とも共同しうるような言動とは、どのようなものでありうるか。自分と似たようなやつとだけやっていくというのでは、もはや僕は狭量な保守になるほかない。自分と似ても似つかないひとたちに親切にする。そのための理路をひらかなくてはいけない。それは、誰かの役に立ちつつ、誰かに自分を売らないでい続けるという綱引きになるだろう。新たに書かれる「会社員の哲学」は、おそらくこのような地点から書き始められる。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。