電車で文芸誌を読みながら、小説読むの向いてないなあと思う。今月は、来月でおしまいだという解放の予感による気の弛みと、読むべき作の単純な数の多さによる圧迫とに挟み撃ちにされて、いよいよもって時評のための読書が労働じみてきている。『文學界』の時評に目を通し、相変わらず僕の所感と正反対の評価がなされているのを眺め、面白い。しかし、他の人が楽しめているものを楽しめないというのは、ただただ落ち込むことでもある。そのうえで、すこしくらいはこんなものを面白いというのは欺瞞ですよという不遜な気持ちもある、嘘、ほんとうは七割くらいそう思っている。
楽しむ、面白がるというのはほとんど技術的な問題で、だからある作を面白いと思えない時、それはだいたいこちらの無知や技能的拙さによるものである。そのことにはしっかり落ち込む。鍛錬せねばならない。万物面白がりおじさんでありたい。いやしかし、とまたしかしを重ねて考える。読まなければいけないものとして読んで面白いこと、あるか? 必要だったのは読みたいと思い込めるよう自分を騙す技術だったのでは?
つらいつらい、面白くない、もういやだと思いながら小説を読み続けて、それでもなお、これは面白いとはしゃげるものがたまにあるから読み続けられている。面白いのが読めるとまじで嬉しい。その嬉しさに賭けて読み続けている。割に合わないギャンブルのようだ。芝居も映画も、同じようなものだとはいえるが、しかし小説は面白いに至るまでのハードルが異様に高いと思う。芝居や映画は目の前になにか動いているものがあればそれだけでだいたい面白さはあるが、小説は、あ、いま動いているなという感覚を喚起されるかどうか、そこにほとんどすべてがあり、だいたいの小説は動いているふりをしているだけだ。安易に情動や性衝動に訴えかけてくるようなのはだいたいつまらなくて、よくわからないまま何かが動き出すようなのを待望している。しかし大半は、理屈に走って淡々と組み立てられたお利口ものか、ありあわせの要素を持ってきて刺激してくる横着もので、前者には欲望が、後者には禁欲が欠けている。欲望はへんてこなものであるほうが面白いし、抑制のきかせかたはズレていたほうがいいグルーヴをもたらす。なぜそうなってしまうんだ、という思い込みの激しさ、その激しさを成立させてしまう謎の強度、そういったものを前に僕ははしゃぐ。僕の好きなタイプの小説はツッコミ不在のボケであり、ツッコミとは社会規範である。読者である側がツッコミに回りなんでやねんとアハハと安心しようとしているうちに、ボケの洪水に巻き込まれ、ボケに説得され、揺らぐ。一緒にボケ倒したほうが楽しいんじゃないかと思えてくる。そういうのがいい。ツッコミ性をもった小説というのは社会の側に立つからつまらない。ツッコミのふりをしてボケてしかいないのは好きだ。これはつまり僕は小説を自身のツッコミ性を表面化させるものとして読んでいるようでいて、本当のところは一緒になってボケていたいと常に思っているということだ。鹿爪らしく、一緒にツッコミましょうと誘われるような小説は、やってらんないよと思う。
映画を映画館で見るのは、数の多寡にばらつきはあれど、誰かと一緒に同じものを前にしながら、自分だけにしか見えないものを見てしまうことの驚きを喜ぶためだ。小説は、たったひとりで読むけれど、そこにはたしかにほかの誰かも、時間も場所も異なる仕方で、いつかどこかでこの文字列を前にしていたということは感知できる。そのうえで、やはり誰とも似ていないものを読んでいるとも思える。劇場での、同時でありながら重なりきらないものへの驚きと、記録媒体を介して時空間をまたいで共有しながらその重なりを驚きつつ、重ならない部分を自覚するほかない静かな気持ちは、やはり別々のものではあれど、同じものを見ていても同じものを見ることはできないということは同じであり、その驚きだけがいつだってぶれない。その驚きを恐れ、疎み、誰かの出来合いの意見を自分の感想として採るというのは、僕にはちょっとみっともないというか、未成熟な態度に思える。みんなと一緒がいい、というのは、子供の理屈ではないか。自分にはこう見えたよ、と言うこと。そこからしか他人の景色にひらけていかない。
こんなの面白くない、と言ってしまったあとに、その面白さに気付かされ恥をかく。それでいい。見える面白さが増えるならどんどん恥をかけばいいじゃんと思う。そのような恥ずかしさにビビれるようなナイーブさはもうないです。これは、俺にとって面白いもんは他の誰にとって醜悪な駄作でも俺には面白いんだよという厚顔さの裏返しでもある。
御徒町の羊香味坊で中川さん兄弟と会う約束をしていて楽しみだった。楽しみだったことがじっさい楽しいと嬉しい。ぺろんぺろんでにこにこ帰宅。犬のようにまとわりついてごきげん。呆れたようにいなされるので余計に嬉しくなる。わーいわーい。
