きのうはやっぱり傷ついたし、悲しかったな、と思い返す。面白くはあったし、期待していたようなブレイクスルーもあった。たぶん僕はナメられていた方が安定する。自分としてはすでに過分なほど尊重されてしまっているという現状認識によって具合が悪くなっていた部分があるが、清々しいほどコケにされることで、あ、まだまだナメられる程度のことしかやってないんじゃん、と肥大した自意識の小ささを自覚でき、かえってやりたいことが明確になった感じもある。そういう意味では激励として機能する部分はある。そこにどのような意図があったにせよ失礼だとは思うので、べつにこちらも尊重したり、いいように解釈する義理もないのだけれど。
こうして書いているとだんだん怒りが湧いてくるかと思いきやそうでもなく、血が足りていないのかもしれない。そもそも僕はつねに自分がとびきり可愛いので、昔から、こんなに素直ないい子をなんでこんな目に遭わせるんだろう?という不思議としてしか、自分に向けられた意地悪を認識できない。でも落ち込みはするから、こうして翌日までどうして?というショックをうじうじ引きずっている。
夜は奥さんと録音。二時間たっぷりおしゃべり。そうだよな、やっぱりおしゃべりって楽しいものだよな、と思う。いつか、僕が自炊するたび疲弊して不機嫌になるのを見かねた奥さんは眉をハの字にしてこう言ったことがある。
私はご飯を作るのが面倒だからあなたと分担したいわけじゃなくて、自分で作るとレパートリーや味付けに偏りが出るから、ふたりで交代にしたほうが色んな味が食べれて楽しい、作ってもらう日は今日は献立何かなと考えるのも楽しいし、とにかく楽しくご飯を食べたくてそうしているんだけど。
楽しくご飯を食べたいから。この言葉に僕は胸を打たれたのだった。なんて素敵な人なんだろう。なるべく楽しくしていたい。社会の話はもちろん無関係ではないが、別の層の話として分けておくもので、日々を個人として過ごしていく生活の層においては、それだけの話なのだ。みみっちい個人として考えるべきことを取り違えないように気をつけたい。生活の保守性を、観念的に捉えすぎないこと。
録音のなかで、人のことを全般的にうっすら好きなのだという発言が自分からなされて、へえ、と感心する。そうだったのか。やはりショックを与えると人は思わぬことを言う。思考を活性化させるためにも、やはりあるていど意地悪に触れないとだな。ちょびっとでいいけど。