radiko で「冥王星で死ね」を聴いてげらげら笑って、ようやくBUCK-TICKを聴き返せるようになってきた。昨晩はメリーのライブを見ていて、ああ、BUCK-TICKの子だ、とステージの愉快さに反して感傷的になってしまっていたから、余計に「冥王星で死ね」で大笑いできたことが嬉しい。
ずっとよくわからないまま共感を示すふりをして乗り切ってきたんですけど、いよいよわからなくなってきた。「何者かになる」ってなんだ?
そうBluesky に書いたらあれこれと知見が集まってきた。倉下忠憲さんはこういう。
使っている人によって込められている意味がけっこう違う印象があります。つまり、対象の具体性の欠如こそに「何者」という言葉が使われている因子がある。https://bsky.app/profile/rashita.bsky.social/post/3lay7wb32mp2y
これは確かにそうだ。いざ「なった」さいは具体性を多分に帯びており、「何者」というぼんやりした言い方で名指せるものではなくなっている。「何者でもない」と否定形で使われるのが主で、「何者かになったぞ!」と高らかに謳われることない。何かを欲しているのだが、それがなんなのかはわからない。「何者にもなれない」みたいなのは、「ほしいものが、ほしいわ。」の現代版なのかもしれない。倉下さんの過去の記事にはこうある。
(…)具体的に何になりたいのか、どういう状態を欲しているのか、何を為したいのかというイメージが欠落した状態だと、その欲望は焦りの気持ちを助長し、個人の精神生活に好ましくない結果をもたらす。
だからといって、何かになりたい・何かを為したいという欲望を完全にうち捨ててしまうのはやりすぎだろう。そうした欲望が、マスコミ・広告活動に刺激され、膨らんでいたとしても、一番小さい芽の部分は、その人の芯から芽生えた欲望だったはずだ。
そうした芽を大切にすることは、この現代において「個人的に生きる」上で大切な営みであるように思える。
倉下忠憲「何者問題」https://note.com/rashita/n/n69848de4af86
神沼三平太さんからはこうきた。
アイデンティティに適切な粒度、というのはいずれの社会集団にもあるのかもしれませんねー。小学校だと「おもろいやつ」「足の速いやつ」みたいな粒度でもいいけど、そこから経済活動に結びついたり社会に知られたりすることで、より適切な粒度に自分自身を落ち着かせていく、というような。
お二人とやり取りをしていて、「何者」について自分が考えたいことが明確になってきた気がする。
まず、神沼さんの例示から、小学校での「おもろい」とか「かしこい」とかの類型化へのプレッシャーが嫌で嫌で仕方なかったのを思い出した。これは自分が何者かを自己決定できないもどかしさであろう。お前はこういうやつ、という類型化は、僕が「個人的に生きる」うえで障壁になる。少年期の「何者かになりたい」という欲望は、自らの欲望は自らで選びたいという自己決定への欲求であったはずだ。
とはいえ、アイデンティティそのものは、属するコミュニティのなかでどのような関係を築き役割を得ているかで決まるものなので、外からの要請や判断で左右されるものではある。だからこの意味での「何者」化は個人がどれだけ自己決定が大事なのだと考えようと否応なくなされる。それはもうそういうものだ。
「何者かになりたい」という欲求は、外から下されるアイデンティファイと、個人的な実感とのあいだのギャップを能動的に埋めたいという欲望の発露であったはずのものだった。これがなんらかの外部要因によって、「何者」の実相を曖昧にしたまま肥大化してしまうと、漠然とした焦りとして空転する。この焦りは、「個人的に生きる」ことを自発的に手放すよう促してくる。少年期には主体性を獲得するためにあるていど必要でもあるだろう「何者」への衝動は、青年期以降変質して、むしろ主体性を損ねる方向に働くようになる。
僕はこのような、一時は杖としてあったものが時の経過と共に足枷へと変じているみたいな事態について考えたいみたいだった。というか、やり取りしている間にそんな気になってきた。
ほんらい「個人的に生きる」ための戦術であったはずのものが、いつしか「個人的に生きる」ことを自発的に手放すよう促してくるものに変質する。プラットフォームに最適化された言語運用などはその一例だろう。プラットフォームに最適化された言語運用、すごく嫌いなんだよな。文芸時評やっていてより強くそう思った。
「自分の言葉で書け/話せ」みたいなの、バカみたいだと思ってたというか、言葉そのものが既成の道具に過ぎないんだからそこに所有の発想は馴染まないだろうと思っていたところもあるんだけど、あまりに流通可能性や伝達可能性に特化した文字列ばかり読んでいると具合悪くなってくる。もっと散らかっててくれ!
錯綜していても、下手くそでも、矛盾しててもいいから、あなたの話を聞かせてくれよ、わかりにくく散らかったそれを頑張って聞いてお節介にも勝手に整理整頓してみせるのが楽しいんだから。そんなふうに思うし、そこでテキストの生産者が思ってもみない収納法をうっかり発明しうるというのが、受容する側の創造性とやらなのだと考えている。流通しやすさ、売れることをそのまま何ものかであるかのように錯覚する発想のもとなされる制作は、えてして受け手の側の創造性を軽んじているし、創発可能性をあらかじめ痩せ細らせている。
Bluesky ではぼんやりとした独り言がこうして誰かとのおしゃべりになるという、SNSに当初感じていた楽しさがまだある。久しぶりに液晶越しにふわっと始まった交流によって活性化するというのを体験して、なんだこの頭はまだ動くのかと頼もしい。
