2024.11.16

radiko で「冥王星で死ね」を聴いてげらげら笑って、ようやくBUCK-TICKを聴き返せるようになってきた。昨晩はメリーのライブを見ていて、ああ、BUCK-TICKの子だ、とステージの愉快さに反して感傷的になってしまっていたから、余計に「冥王星で死ね」で大笑いできたことが嬉しい。

ずっとよくわからないまま共感を示すふりをして乗り切ってきたんですけど、いよいよわからなくなってきた。「何者かになる」ってなんだ?

そうBluesky に書いたらあれこれと知見が集まってきた。倉下忠憲さんはこういう。

これは確かにそうだ。いざ「なった」さいは具体性を多分に帯びており、「何者」というぼんやりした言い方で名指せるものではなくなっている。「何者でもない」と否定形で使われるのが主で、「何者かになったぞ!」と高らかに謳われることない。何かを欲しているのだが、それがなんなのかはわからない。「何者にもなれない」みたいなのは、「ほしいものが、ほしいわ。」の現代版なのかもしれない。倉下さんの過去の記事にはこうある。

神沼三平太さんからはこうきた。

お二人とやり取りをしていて、「何者」について自分が考えたいことが明確になってきた気がする。

まず、神沼さんの例示から、小学校での「おもろい」とか「かしこい」とかの類型化へのプレッシャーが嫌で嫌で仕方なかったのを思い出した。これは自分が何者かを自己決定できないもどかしさであろう。お前はこういうやつ、という類型化は、僕が「個人的に生きる」うえで障壁になる。少年期の「何者かになりたい」という欲望は、自らの欲望は自らで選びたいという自己決定への欲求であったはずだ。

とはいえ、アイデンティティそのものは、属するコミュニティのなかでどのような関係を築き役割を得ているかで決まるものなので、外からの要請や判断で左右されるものではある。だからこの意味での「何者」化は個人がどれだけ自己決定が大事なのだと考えようと否応なくなされる。それはもうそういうものだ。

「何者かになりたい」という欲求は、外から下されるアイデンティファイと、個人的な実感とのあいだのギャップを能動的に埋めたいという欲望の発露であったはずのものだった。これがなんらかの外部要因によって、「何者」の実相を曖昧にしたまま肥大化してしまうと、漠然とした焦りとして空転する。この焦りは、「個人的に生きる」ことを自発的に手放すよう促してくる。少年期には主体性を獲得するためにあるていど必要でもあるだろう「何者」への衝動は、青年期以降変質して、むしろ主体性を損ねる方向に働くようになる。

僕はこのような、一時は杖としてあったものが時の経過と共に足枷へと変じているみたいな事態について考えたいみたいだった。というか、やり取りしている間にそんな気になってきた。

ほんらい「個人的に生きる」ための戦術であったはずのものが、いつしか「個人的に生きる」ことを自発的に手放すよう促してくるものに変質する。プラットフォームに最適化された言語運用などはその一例だろう。プラットフォームに最適化された言語運用、すごく嫌いなんだよな。文芸時評やっていてより強くそう思った。

「自分の言葉で書け/話せ」みたいなの、バカみたいだと思ってたというか、言葉そのものが既成の道具に過ぎないんだからそこに所有の発想は馴染まないだろうと思っていたところもあるんだけど、あまりに流通可能性や伝達可能性に特化した文字列ばかり読んでいると具合悪くなってくる。もっと散らかっててくれ!

錯綜していても、下手くそでも、矛盾しててもいいから、あなたの話を聞かせてくれよ、わかりにくく散らかったそれを頑張って聞いてお節介にも勝手に整理整頓してみせるのが楽しいんだから。そんなふうに思うし、そこでテキストの生産者が思ってもみない収納法をうっかり発明しうるというのが、受容する側の創造性とやらなのだと考えている。流通しやすさ、売れることをそのまま何ものかであるかのように錯覚する発想のもとなされる制作は、えてして受け手の側の創造性を軽んじているし、創発可能性をあらかじめ痩せ細らせている。

Bluesky ではぼんやりとした独り言がこうして誰かとのおしゃべりになるという、SNSに当初感じていた楽しさがまだある。久しぶりに液晶越しにふわっと始まった交流によって活性化するというのを体験して、なんだこの頭はまだ動くのかと頼もしい。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。