2024.11.18

観念が私生活に優越するキモさに鋭敏であれ。

僕の二千個ある趣味のうちのひとつにマイ座右の銘をでっちあげるというのがある。いまのそれがこれだ。

この個人の生として、まず2000年にひとつの切れ目があり、これは子供心に自分が立ち会う千年の区切りや世紀末というのはこれきりなんだなーという素朴な感慨がまず大きい。ノストラダムスの大予言や2000年問題がそうした雰囲気をよく盛り上げた。

つぎが2020年で、20代最後の年と新型コロナウイルスの流行とが重なったことで明確に以前と以後がある。いまとなっては、2020年の春以前の自分や世の中との連続性をうまく実感できないところがある。以前の感覚を、思い出す必要がある。

ところで、自分の興味の外にあるものを軽んじるというヒトの習性、感じ悪い。たしか2016年ごろからだったと思う。フィルターバブルとかエコーチェンバーとか、個人の見聞が閉じたり狭かったりするのが問題のようにいう言説をよく見聞きするようになった。けれども、今思うのは、そもそもヒトが興味を持てるものってそんなに沢山はなくて、興味ないものは軽んじてしまう。そういう興味の埒外にあるものについて、軽んじたまま何か言いたくなる環境こそが問題なような気がしている。興味を持たないまま、何か言ってやろうという気分だけで軽々に損ねるような物言いをする。それよりは、興味がないのなら放っておくほうがまだましだったのではないか。まったく興味がないどころか、うっすらバカにしているものを、触れずに済ますことで示せる敬意というのもある。あるいは、すべてを興味を持つに値するものとして扱い、そこにある魅力を感受する理路を発見する。そういうのが知的営為というもののはずだ。

思いついた短文をTwitterを離れてBlueskyで書くようにしている。300文字くらい書けるはずなのにけっきょく文字数は足りない。こっちで書くといろんな人が返事をくれて楽しい。適当に書き散らかして、たまにやり取りが発生して、触発されてもっと書き散らかす。そういうのが楽しくて文字を読み書きしてるんだった。そんなことを思い出す。

興味の内外について引き続き考える。次なる『会社員の哲学』についてだ。興味もないし、やる気も湧かない。片手間で済ませる。それでも求められるクオリティは担保しつつこなすことができるようにする。楽しくもないし苦しくもないものとしての労働術こそが求められている。(誰に? 僕に)。

全身全霊、四六時中そのことを考えていないとうまくできない仕事って、賃労働としてあまりに過分だ。かといって、求められるクオリティよりも低い成果しか生産しないでいるというのも具合が悪くなる。 賃労働へ割くリソースは、勤務時間中に収まる範囲に節約する。それが理想だが、しかし関心のないものごとに人はそんなに注意を払えず、不注意は労働の成果物のクオリティにはっきりと出てしまうものだ。 やる気を出さずに注意を払う。サボりつつ注力する。そのような二律背反をどうにかして実現させたい。

これはつまり、メリハリが大事ってことだろうな。

しかし、メリハリってどうやったらつけられるんだ?

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。