六時十五分前からしっかり鳴きだし、人間を起こす。おそらくごはんの要求。食後も遊んで欲しがる。この家のリズム的に、なるべく後ろにずらしたいところ。今日のところは奥さんがソファに寝転がりながら相手をする。僕はちゃっかり二度寝する。朝の時点でうんちも確認できたらしい。僕も夕方に猫砂をほじくると三個くらい発見した。想像していたよりもすこし大きい。うさぎとかのしか見たことがなかったから、アポロみたいなのを思い描いていたらしい。実際はひとつひとつが個包装のブラックサンダーくらいの大きさ。トイレはばっちりそうだ。
SPBS TORANOMON閉店の報。『プルーストを読む生活』を置いてくださっていた。新刊が出るたび、どこよりも早くご連絡してくださることもあったし、増補する前の初代『会社員の哲学』のころから、日記本含めたくさん売ってくださった。『町でいちばんの素人』はブコウスキーと並べてもらえたり、すてきな内容のポップまで制作いただき、とても嬉しかった。直接納品しに行って、その場で本を選んで買うのも楽しいいい棚で、個人で制作した小さな本を、軽んじずに大切に取り上げてくださったことに、どれだけ励まされたか。
郵便で、「プロレス入門者の一年弱」という座談会を寄稿した『NOIZ NOIZ NOIZ #3』が届いたので、ほくほく読みだす。知らない固有名詞がしれっと連発されて、あれこれ自分で掘っていくうちにマッピングされていく。そういう雑誌経験はずいぶん懐かしく、嬉しい感じがする。トライアルの開始日と被ってしまったので、文学フリマ東京に行くのを諦めて、昨日はいちにち猫にかまけていた。SNS越しに眩しく眺める文フリは、実に楽しそうで、素直に行きたかったなーと思えたけれど、これは行かなくてもよかったと心底から思えているからこその素直さでもある。楽しいお祭りを楽しむための距離感は、なにも参加だけではない。それはそれとして、買いたい本はどれだけ書店への委託や通販があるだろうか。ぜんぶあるといいな。
今日は二階で人間が在宅勤務だったため、合間にあれこれ遊んでやる。それで満足するのか、日中はおおむね落ち着き、あまり鳴かずにソファやケージの落ち着くスペースで寛いでいる。香箱座りでいいのだろうか、前脚をちょこんと揃えて、でも箱状に四角いというよりは背中が丸まっている。さっそく慣れてきたのかヤンチャさも顔を出してきていて、みんぱくで買った木彫りのミーアキャットを引き倒して転がしたり、エーステのペンライトを棚から落としたりしている。遠慮がなくなってきてなによりです。
すでに、あらゆるSNSに猫の写真を載せたい。しかしトライアル明けるまでは控えておきたい。などと言いつつ写真はすでに何十枚と撮られているのである。猫を見せびらかしたくなる心情は、たとえば欧州ではサロン文化によって形成されてきた面があると、『猫を愛でる近代』は示唆している。社交界をめぐるセレブリティを内外に流布するテキストメディアはSNSに、サロンの内輪で回覧する詩歌や小説はそこに投稿される猫の画像に──いや、それらはむしろ文フリで頒布される自主制作本にこそ似ているのかもしれない。とにかく、十八世紀の閉鎖空間において独自のコードを流通させる磁場は、インターネットによって大多数にひらかれつつ、ほとんどその性格を同じくしているようにも見える。
猫の本をつくりだしたら何かが終わるような気がする。しかし、やりかねない。不思議なことに、これまでは、ふーんとしか思っていなかった他人の猫の写真に、いちいち、わあっと気持ちが華やぐようになった。