さいきんは七時前に鳴き始めてすぐに自動給餌器からご飯が出てきて落ち着くというリズムが安定してきたと思ったけれど、今朝は六時には鳴き始め、寝室から出て書斎で二度寝した。人間の姿が見えれば静かになる。こちらがただ寝ているだけでもじゅうぶんらしい。けっこうしっかりめに寝てしまい、直截的に性的な夢を見る。眼が覚めると腰の上で丸くなっている。どかしてまで起きてどうすると思い、また寝る。それで寝坊した。次に起きるときには腕に載っていた。ちょうど水を飲みに動き出したのでのろのろと起き出す。大胆に寝坊すると気分が穏やかになる。コーヒーを淹れて、優雅に朝食。それから外に出るとすでに高い太陽から暖かさが下りてきているのを顔に受けてぽかぽかした心地。
昨日とつぜん現れたmixi2は、はじめのうちは小まめにフォローを返してみたりしてみていたけれど、すでに溢れていてよくわからなくなってしまった。たぶんおおむねティーンのころと重なって流行していた無印のmixiをよく知らない。なんか足跡がついたり、クラスの同級生や親の悪口を鍵付きの日記に書いたりするらしいというのは聞いていて、人間関係に関心を持てなかった当時の自分はスルーしていた。だから懐かしさも何もないのだけれど、これは片手に収まる程度の人数で、親しげなやりとりを交わすくらいの場所であって、やたらに人の輪を広げる必要ってないのかもしれない。
とにかく中学高校の雰囲気を思い出そうとしていた。教室の現場でなされるおしゃべりに、なんか自分の知らない別のレイヤーがあるっぽいなとは感じていて、たぶんあれはmixiだった。大学生になって友人たちの近況をTwitter経由でお互いだいたい把握しているという状況になって、リアルの上にテキストでの交感を被せる楽しさをようやく知った。mixiって、ただ学校に通ってるだけでは入れてもらえない、ひとつ踏み込んだところにある交友関係の象徴のようで、ただただ早く家に帰りたかった僕としては疎ましくもすこし羨ましいような気もする、見えそうで見えない秘密の雰囲気があった。それはTwitterの鍵アカウントをフォローさせてもらえた時のくすぐったさに似ていたのだろう。いまとなっては、絵文字やエクスクラメーションマークを駆使して、怖くないですよとアピールする表現形式には、そこはかとなく加齢臭を感じもするし、そのような刺々しくないコミュニケーションへの欲求の表出それ自体にえぐみを察知しないでもない。若いうちは、ただ誰かと仲よくやり取りできたというだけで無邪気に喜べた。たぶん、歳を重ねてもなおそのような無邪気さを持てている人のほうが多数なのかもしれなかった。僕はどうにも、コミュニケーションの成立それ自体への嬉しさというのはよくわからない。せっかくなら面白い話をしたかった。ただし、文字だけで面白い話ができるというのはそこそこ特殊な技能であって、だいたいの人間は文章が致命的に下手なのだから、絵文字やエクスクラメーションマークにこそ敵意のなさや行為を託すような振る舞いのほうがずいぶん健全だとも最近はとみに思う。
さいきんはブラウザはArc、検索エンジンもDuckDuckGoを使っている。SNSも複数化してぜんぶがどうでもよくなってきている。あるひとつのプラットフォーム一強の状況から、いまひとつ決め手に欠けた中規模のあれこれに分散され、ゆるく横移動にもひらかれていく趨勢じたいは好ましくもある。社会でも世間でもいいけれど、とにかく人間関係の圏域を、単数から複数へひらいていく。教室や職場だけでなく、べつに場所をいくつか確保していくことでなんとかごきげんを保ってきたようにも思うし、どこでもいい、という状態は息がしやすい気がする。そして、だいたいのことがどうでもよくなる。人間関係どうでもいいなという気分が高まるとめちゃ本が読める。そして、本を読みすぎると人と話したくなる。そしてまた人間関係へと参入していく。そうやって循環している。
お肉があと二個足りないな、と思っているうちにメンテに入ってしまい、カビゴンにお昼ごはんをあげそびれる悲しみ。夜道が寒すぎて耳が冷え冷えで頭痛がきた。奥さんが買ってきてくれたチョコケーキが美味。