今朝は奥さんがルドンの呼びかけに答えて早起きをした。そのはずだった。十時前に起き出すと大小ふたつの体はソファで一緒にすやすや眠っていて、声をかけると、ゴミ出しそびれちゃった、と言った。奥さんは会議に出るため一階の仕事部屋に向かい、僕は猫を膝に乗せて微睡んだ。昼前にようやく朝ごはんをとる。今年出た文芸誌に掲載された単発のエッセイすべてに目を通すというのを昨日から始めて、これは流石に出先ではできないから思ったより時間がかかる。通勤のある日は別のものを読むほかないからだ。面倒なことを始めてしまったな、と思うけれど、なかなか楽しい。面倒であるからこそ楽しい。日記はずいぶんと楽に書けるようになってきており、面倒なことであるというのをどうにか思い出さねばならない。読むのも書くのも億劫なことだ。手がかかって仕方がない。しかもやってもやっても充分ということはない。やったぶんだけ不足の自覚が強まる。徒労というほかない。だから楽しい。この「だから」を皮肉や倒錯ではなく、ただ素朴な順接として捉えること。
賃労働は苦役に他ならないが、それは面倒ではないからというか、むしろ自他の面倒を取り除くプロセスだからこそ苦しい。自由の感覚とは、頼まれてもいないのにわざわざ面倒なことに取り掛かる、そうして、大変で仕方がないなあとぼやく、そうやって手応えも確信もないままひたすら何かをやってみて、それが結果に繋がろうがそうでなかろうと、とにかくわからないままに動き続ける、次々に試してみるというそれ自体がしんどく、わくわくと楽しい、そういうもので、だから無駄で余計なことに悪戦苦闘している時にこそ表れる。勝手にやるというのがまず大事で、頼まれてやる時点でだいたいつまらないのだけれど、頼まれていることをずらしてより面倒な方へ行く、頼まれたことを無視して好き勝手遊んでいるんだという気概を持つ、そのようにしてしか楽しくない。頼まれごとを真面目にこなしたいというような欲求からどのように距離を取るか、今年はよくわかんなくなっていた。楽にこなしたい、とすら思った。多分それではだめなのだ。面倒だな、と思った時、それは取り組むべきものの面倒さ、こんがらがっている度合い、複雑さが足りていない。そういうときこそより手数が多そうなほうへ軽薄に乗り込んでいくべきだ。べき、という書き方はまったくこの感じにそぐわない。乗り込んでしまったほうが、結果的には嫌さが減じることが多い。そのような経験則を得てきてなお、賃労働はなるべく楽にこなしたいし、楽にこなすべきだと思う。賃労働に自発性などないからだし、そこに自発性を錯覚するのはふつうに不気味で怖いことだからだ。
三毛でもサバトラでもない、錫色を基調として白、茶色、の混じった猫。鵺のようだと奥さんの形容するこの家の猫は早朝以外ほとんど鳴かなくなってきた。ただひたすら膝の上で寝る。自分の尻尾を追いかけて興奮してきて、だんだんわけわからんくなって人の靴下や足や膝に飛び掛かる。運動不足かと猫じゃらしを持ち出すとそれには関心を示さないで、また膝に来て臭い息を吹き掛けてくる。あるいは頭皮の臭いを執拗に嗅いでくる。それから膝の上でいい感じの姿勢を模索して、よしとするとまた寝る。すぴー、という寝息を聞くとこちらもうとうとしてくる。どんどんいい猫になってくる。大好きだな、と思う。朝も鳴かないでくれたらもっといいんだけど。
