2025.01.30

(…)学がある人はやっぱり、いきなり始められない。霊媒から出発したブラヴァツキーみたいに、矛盾も剽窃も何のその、バーンと勢いでいってしまう雑なほうが影響力はでかい(笑)。(…)人間、考えたら大きなことはできない。理性でできることなんて限られているからね。 横山茂雄・武田祟元『霊的最前線に立て!』(国書刊行会) p.218

朝読書はオカルト・アンダーグラウド全史。過去のトンデモ話として楽しむぶんには最高なのだが、現在進行形でこうした想像力が世界の少なからぬ部分を動かしていることが、内外を眺めてもわかる。霊的な想像力の源泉はつねに左右を問わないラディカルな変革の意志にこそあり、それはいまにまで連綿と続いている。偽史でさえ、積み重なれば文脈としては立派に自立してしまう。だからこそ、こうしたオカルト史を概観しておくことは案外ばかにならない。霊的歴史を学び、最前線に立とう!

電車では『ヤギの睾丸を移植した男』。まじで面白い。あっという間に読めてしまう。明日には読み終わりそうで、惜しい。構成がかなり巧みで、プロローグの医療免許剥奪シーンが終着点かと思わせておいて、なんと中盤であっさりそこまで辿り着いてしまう。偽医者に収まらない稀代の悪党の躍進は、まだまだ続くのだ。こわ。

池袋まで出て、奥さんが見つけてきたガレットのお店でランチ。オカルト史を概観しつつ、ブリンクリーの悪行の数々と、それでもついていってしまった人々についてを読みながら考えていたことをつらつらおしゃべり。それはタイトルをつけるのであれば、「糸井重里とスタバの受容史——陰謀論史と医療詐欺に対する信の問題を手がかりに」とでもなるだろうか。左翼運動の終焉とともに開始された糸井重里の商業活動においてまず念頭にあったのは、内ゲバに対する深い失望と、消費という緩衝地帯における政治的判断停止への志向だったのではないか。つまり、人は消費者としているとき、思想信条による対立を先鋭化させることなく、ただの客として寛容な無関心を発揮し、表面上の平穏な共存を実現することができる。「人間」として政治的思想を表し、際限なく見出される差異によって殲滅戦へともつれこむよりは、いっそただ動物としての快不快でだけ買い物をし、「おいしい生活」を実現する方がまだましなのではないか。そのようなシニカルな状況判断が糸井にはあったのではないかということだ。これは、東浩紀が「客的-裏方的二重体」として名指したものにも通じる気分のような気がする。誰もが消費者である前に生産者でもある現在、客的な側面は裏方的側面に圧倒され、サービスが見せる夢を享楽する前に、バックヤードへの想像力が覆い被さってしまう。バックヤードに蔓延る不正を是正するために行われる「正しい」言説は、しかし客的な思考停止が許される緩衝地帯をも根こぎにしてしまう。人が「正しさ」に対して反動的に振る舞う時、そこで求められているのは客的な場であろう。ケア労働が不可視のものとしてあることは不正である。だからといって、屈託なくケアされる時間を全面的に否定してしまっては、人は常に裏方的緊張の只中にあることを強いられてしまう。人はつねに客でいようとすれば社会が成り立たないし、裏方でい続けることにも耐えられない。裏方的想像力の一時停止を許されない事態にあっては、バックヤードでの思考停止の可能性——陰謀論——や、甘やかなサービス幻想——医療詐欺——の吸引力はいや増すだろう。いま、リベラルや左翼的なものが、事態に対抗するために求められているものは、理路整然とした正確さではなく、気持ちのいい嘘をつく技術、つまりはサービス力であろう。そんな話だ。

サンシャイン劇場で『学芸員 鎌目志万とダ・ヴィンチ・ノート』。小林賢太郎の芝居に鈴木拡樹が出るというものだけれど、僕らの目当ては「ひとりの太字(笑の太字)」の古屋敷悠だ。彼は非常に優れた役者だと思うから、大きめの興行で活躍するのが楽しみだった。じっさいかなりいい仕事をしていたし、持ち味を発揮してはいた。ただ、出番が物足りなく、引き出しも見たことのあるものしかなかったので、もっとやれるんです、もっといい役で存分に暴れさせてもらっているところを見たい、と思った。すっかり贔屓だ。ほかの役者もそれぞれよくて、演技だけでも見れてはしまう。特によかったのは辻本耕志で、これは役がおいしいのもあるけれど、抑制の効かせ方が絶妙で、終盤のあるシーンでは思わず泣いてしまった。しかしこれはほとんど個人的な文脈によるもので、作品自体の出来とは関係がない。鈴木拡樹という役者は良くも悪くもプレーンな存在で、演出の指示をほとんどそのまま体現する透明度の高い媒介のように思える。つまり、つまらない演出の稚拙さが、そのまま容赦なく曝け出されてしまうということだ。鈴木拡樹がつまらないとき、それは役者ではなく、作品自体がつまらないときだった。なんというか、子供を舐めた作りの子供騙しというか、つくりも仕掛けも素朴にすぎて、大の大人がわざわざ喜んで見るようなものではない。こんなぬるいものに対して、客席の反応が温かいのがかなり不気味で、なによりそのような雰囲気にこそげんなりした。つまらないものは、ちゃんと断罪されないとだめだ。ぬるいもの作ってぬるく歓迎されてしまうというのは、制作者としていちばん怖い状態だと思う。こんな、知性の欠如したプロデューサーの無節操な口出しに唯唯諾諾と従った結果、七煎目の出涸らしみたいな内容しか残らず、誰にとっても何一つ面白くなくなってしまったような芝居が、受け入れられちゃだめだろう。小林賢太郎は二〇一一年の『うるう』の初演以来だったろうか。あれはけっこう良かった記憶がある。僕は彼はパフォーマーとしては好きだけれど、二人以上登場する作劇については、もともとそこまでセンスがあるとは思っていないので、もとから期待はしていなかったから、出来のよくなさはまあそんなものだろうと許容できる。しかし、そんなものに喜ぶそぶりを見せる客にはぞっとしない。まあしかし、よちよち歩きでも難なくゴールできるような物語に、ゆるゆると浸かるという子供扱いに安楽を見出すようなニーズもあるのだろう。言葉巧みに睾丸の移植を勧める偽医者に心酔するような心性と、似ているとも言えるだろう。であれば、だってさっぱり面白くなかったじゃん、というマジレスは、鬱陶しいだけなのかもしれない。けれども、感想って別に客同士で気持ちよくなるためのものではなくて、裏方のより良い仕事へと繋がる糧として表明するものではないですか?

奥さんお気に入りの香港料理屋でテイクアウト。夕食は家で蒸し物パーティ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。