先日衝動買いした鮮やかな黄色いキャップがさっそくレターパックライトで届いたという通知メールがあったので、郵便受けまで行きがてらすこし散歩をした。そのまま封を解いて被って歩く。路駐の車の窓なんかで確かめるとよく似合っている。三十路を目前にどんどん鮮やかな色を身に纏いたくなっていて、それはなかなか遠出もしにくくて家から出るだけでどこかハレな感じのするいまをなんとか楽しみたいというような気持ちもあるのだろうから加齢は関係ないかもしれない。この冬は空色のダウンコートを買ってそれだけで外出が嬉しかった。ずっと家にいるとすぐ着替えるのすら億劫になるから、着るのが楽しみな服があるのはいいことだった。ダウンコートの要らなくなる気候になって、だから新しい色が欲しかった。それでキャップだった。工事現場のヘルメットみたいな鮮やかさ。スモッグと合わせれば園児の被るあれみたいになるかもしれない。そういう茶々を自分に入れつつ、それでもご満悦なのだった。家から出ないでいるとどんどん外が恋しくなって、『カラマーゾフの兄弟』でゾシマ長老に相談に来る信者の、私は世界中の人類を愛しているが、人類への愛が高まればそれだけ、じっさいに相対する具体的な個々人の醜悪さに我慢がならなくなる、というのが思い出される。自分のなかで高度に理想化される他者と現実の他者とのギャップ。学生時代に読んだ『カラマーゾフの兄弟』はゾシマ長老が腐ることすら覚えていないが、この問いかけ──ゾシマ長老の応答はさっぱり忘れている──と有名な屁理屈兄貴との問答だけはやけに覚えている。『カラマーゾフの兄弟』といえば僕は手塚治虫の『ブラックジャック』で知って、そこには『カラマーゾフの兄弟』と同じく片方の受けた傷をもう片方も共有してしまう一卵性双生児が出てくるのだけど、じっさいにドストエフスキーを読んでもそんな設定は出てこないどころか兄弟も双子でもなんでもなくて、手塚治虫もいい加減だなあと思った。いま調べてみると手塚治虫は『コルシカの兄弟』で、ぜんぜん違うじゃん。どうしちゃったの当時の自分、というか今の今まであれは手塚治虫の勘違いだと信じて疑わなかったのだから今の自分すらいい加減なものだった。