梅が咲き始め、いまがいちばんめっちゃ寒い。
『夜のみだらな鳥』も終わっちゃった。過現未が一挙に目の前に現れ、それを知覚する語り手も一意ではなく、語りの宛先さえつねに揺れ動き一定しない。読むという行為によって時間や空間が変容する、ずっと動き続けてどこにも辿り着けない迷宮のような小説。
『ディスコ探偵水曜日』は、これと並行して読まれるべくして読まれたのではという気がする。この世の出来事は全部運命と意志の相互作用で生まれるんだって、知ってる? どちらも、読まれることを動力として、自律的に運動し続ける機構であることを志向する小説であった。しかし、『夜のみだらな鳥』が名もなき老婆や不具にいたるまで、生き生きとした他者として生きている感じがするのに対し、探偵小説の形式を極限まで誇張し、時間と空間というものすら疑って推理の対象とすることで可能世界の創造という解決に至る『ディスコ探偵水曜日』の登場人物は、あくまで形式的な物語に配置された記号に過ぎないという印象を受ける。
そのうえで、両作ともに性的虐待を受ける子供が描かれるのだけれど、それに対する生理的な嫌悪感と憤りを強烈に喚起するのは、人物をとことんまで簡略化し戯画化している『ディスコ探偵水曜日』のほうなのだ。『夜のみだらな鳥』のキャラクターたちは、あまりに具体的で生々しい印象を読者に与えることで、むしろ個別の痛みへの安易な共鳴を拒んでもいる。強烈な存在感を放つ他者の情念に巻き込まれ、妄想と現実のあいまで迷子になってしまう、そのような境地にホセ・ドノソは誘い込むが、その主体が圧倒的に他者であることで、そこにいる個人たちの苦境は他人事として隔たりをもってもいる。かたや舞城によって創作されたジャンル小説的な紋切型へと圧縮された軽便な虚構人格は、そこに実在感を感じ取らないからこそ、描かれる痛みが直截的に痛切なものとして読み手に響いてしまう。この逆説はなんなのか。
あらゆる生き死にを思弁的な操作可能性へと徹底的に抽象化することで、ようやく切り拓くことのできる生きてもいいかという意思がありうる。SFやミステリの「男の子」っぽさを、ただ全面的に切り捨てるのではなく、そこに宿る素朴な切迫についてポジティブに語る理路はありうるだろう。そんなタイトルの本があったな、と思い出し、『大量死と探偵小説』を買う。いつか読むだろう。
昼休みはカントを開くが、カウンター席で隣り合った大学生の会話が面白くて、ついそちらに耳をそばだてているとさっぱり進まない。高校の同級生であり、片方は教育、片方はおそらく政治史学に進んだ彼女たちが論じるのは、軍国主義から連綿と続く一斉画一的教育への違和、英語嫌いとドイツ語への意識、宗教なきナショナリズム下で私たちは互いに孤立していること、米国との外交における安部政権への評価、沖縄、広島、長崎、福島、「思想強い」のは悪いことじゃないけど同じ学部の「左翼」は怖くてキモいこと、「ちょっとチー」だけど優しい彼氏が教えてくれるおいしいラーメン、ヤン=ガン=イ=タンのLINEスタンプ、LINEでの何気ない会話の方法、など間断なく展開され、ぜんぶ面白い。いま真面目に勉強を楽しむ学生から見える世間ってそういう感じなのか、と面白い。手許のカントはなんか難しいことをずっと言ってて、あんま頭に入ってこなかった。レビューペーパーはラブレターだと思って書いてる、要約というのはつまりあなたの話をこのように聞きましたという表明だから、という発話があって、よいな、と思う。このあとどうする?と散歩か書店かという二択が提示され、書店に向かうようだった。カントは、われわれが物自体を直接知ることはできないこと、数学における経験に先立つ直観とは空間と時間にほかならず、われわれはこの二つの形式に基づき現象する対象を認識するのだといっている。ええっと、なんですって?