六時半前に起きる。画期的な早起き。寝る前にルドンに、六時に起こしてね、と言いつけておいたら、きっかり六時から元気よく鳴き出したので天才猫なんだと思う。おかげで余裕で朝食と読書。朝労働。午後には終える。郵便受けにSUZURI で試作したTシャツ届いている。まあこんなものかという仕上がり。袖部分のプリントはやっぱりもっとどーんとやりたい。本格的な印刷を小ロットで作るべきか迷う。とりあえず岐阜にはこれを着ていこう。販促の法被みたいなものだね、と奥さんはいう。
奥さんは猫のベッドとしての役割をまっとうし、ソファでじっとしている。ルドンは眠ったり、毛繕いしたり、気ままにしかしけっしてどかずにのんびりしている。その温もりに奥さんはうとうとし、埒が明かなそう。明日には刷り上がった本が届くとメールがあり、であれば明日は受け取り体制をとりたい。今日のうちにお出かけしておこうかと思い立って、自転車でシネコンに向かい、『バクチク現象』を見にいく。前後編の前編。開始と終映の時間をみると三時間あるようだったけれど、じっさいは予告編がだらだら流れていたから二時間強だろうか。櫻井敦司が階段を降りる何気ない姿に動揺するけれど、だんだん、あっちゃんと五人で一緒にいる四人と、四人でいる四人とは別物であること、それでもなお、四人の中には五人の時間が引き続きあることなどを思っていた。二十五周年の映画に引き続き、映るのはずいぶんと地味で退屈な楽屋や制作現場での風景で、ナレーションもインタビューもなしに淡々と続く。ライブ映像はやはり、この優れたパフォーマーがこの世にはいないことへの悲しみが勝るけれど、どうということのないくたびれた個人として映し出されるところを眺めていると、だんだん、喪われたという一点だけで、遡及的に生きていた頃のすべてが輝き出したり、悲劇へと塗り替えられたりするわけではないのだよな、ということが納得できるようでもあった。生きていたということ自体には、意味も華もなく、地味な積み重ねとしてあるし、そのような共同作業によるくたびれの反復が、五人の時間として今に至るまで四人を五人として規定しているのだ。その結果として出てくる作品や演技を、これからも楽しみにしたいし、できるな、と思う。見てよかった。
お腹がぺこぺこだったので施設内のレストランでもりもり食べる。帰りはとっぷり暮れていて、自転車を漕ぐと凍えた。映画の椅子もけっこうしんどく、往復の移動もあって股関節の調子がよくない。早起きしてたくさん体を酷使したからか、猛烈な眠気でお風呂に入る前にソファで仮眠をとると、完全に肉体が寝てしまい、起き上がっても痺れるような鈍重さがある。呂律も回らず、奥さんと会話しているつもりでおそらく譫言にしかなっていなかった。諦めてベッドに移動し、泥のように、そう、これこそが泥のようということなのだろう、寝た。