2025.03.05

木曜からの大阪名古屋岐阜の四日間で乱れたリズムを取り戻す。けさは七時に起きて『ロマン』。結婚の宴席で、ブリンの食べ方を議論し大笑い、サモワールを讃えるスピーチに喝采。ブリンって食べたことあるかな。クレープみたいなものらしい。サモワールはなんとなく憧れのガジェット。いらないけど。みんな楽しそうで、最後にちゃぶ台返しがあることを薄々知っていても、こっからどうやってふざけ倒すつもりなんだ?と思う。

家を出ると冷たい雨。雨やだ〜 え、今日いちばん寒くない? 春かと思わせておいて、冬よりいっそう寒くない? ひど。路面に溶け残った雪が寒々しさを引き立てる。細かい雨は容赦なく上着をべちょべちょにする。

電車では笠井潔『大量死と探偵小説』。最終章「大量死から大量生へ」が白眉。第一次世界大戦の、英雄も凡人も等しく無意味なモノとして屍の山へと積み上げられていく経験は、十九世紀までの近代主体的な人間像を〈致命的に破壊した〉。もはや調和へと進歩していく人間を支える理念は失効し、生まれたのが〈二〇世紀的に無個性で凡庸な〉〈名前さえ奪われた、抜け殻のように空虚な私〉である。これは、もはや人間というより〈「人形」〉である。

一九世紀を駆動した近代的理念、すなわち社会主義とナショナリズムは、二〇世紀に至りまがいものへと変質していく。前者はボリシェヴィズム(レーニン主義)であり、後者がナチズムだ。近代的理念という〈「大きな物語」〉のまがいものであるボリシェヴィズムとナチズムが、ハイデガーをはじめとした二〇世紀の主体を惹きつけたのは、対戦の大量死を通過した人間はもはや人間とはいえず〈「人形」〉のような〈空虚な主体性〉を〈過剰な観念で充填しようと〉したからにほかならない。〈解体された空虚な人間主体である群衆は、過剰な観念を必然的に吸引する。過剰な観念は空虚な群衆存在に疑似的な意味を充填し、それを理念的に形式化しようとする〉。このような二〇世紀の全体主義に対して勝利を収めるのは、通常いわれるようにリベラル・デモクラシーではない。リベラル・デモクラシーという十九世紀的観念に擬態したアメリカニズムである。

ではアメリカニズムとは何か。それは、〈「大きな物語」〉のような観念を放棄し、大量生産大量消費という〈「小さな物語」の無秩序な集積〉に居直るというものだ。人間の放棄を実態としては肯定しつつ、リベラル・デモクラシーの見せかけによってかろうじて統合している代物である。アメリカニズムは、ボリシェヴィズムやナチズムが〈過剰な観念で充填しようと〉した人間のフェイク性をあっさりと承認し、〈「人形」〉として自己肯定する点で、〈大量死の陰画としての大量生〉の謂である。

〈産業廃棄物〉として、マスの生死が無意味化していくなか、その否認と承認の身振りとしてのボリシェヴィズム、ナチズム、アメリカニズムという三項が拮抗する勢力図がかつてあった。そのような状況下で、二〇世紀小説としての探偵小説は書かれた。徹底的に破壊された一九世紀的ヒューマニズムの瓦礫の上に築かれたモダニズム運動という意味で、探偵小説はアヴァンギャルド芸術運動の一翼を担う。しかし他のモダニズム運動が陥りがちな〈絶滅と大衆ニヒリズム〉の手前で踏みとどまり、無意味な死を、犯人の周到なトリックと探偵の精緻な推理という〈「二重の光輪」〉で虚構的に意味化しようとするのである。

二度目のトランプ政権についてのニュースを見聞きするたびに、アメリカニズムからリベラル・デモクラシーの見せかけさえ剥ぎ取られて、いよいよ二〇世紀が終わっていくのだな、という感覚がある。このタイミングで読むと、やはりそういうことを考える。いつか世界史として振り返るとき、二〇世紀が一九一四年から開始されたという見立てがあるように、二〇二〇年以降のどこかで区切るようになるような気がする。

昼休みはカント。こちらも一週間くらい空いてしまった。こういう、錨のように毎日に打ち込む本があると助かる。いつものリズムでほんの数分でも読むことができれば、ああ、日常の習慣へと戻ってこれた、と思える。遠出の疲れと寒さの戻りで、もうだめかと思っていたけれど、大丈夫そうだ。またやれる。乱れても、またふだんのリズムで。

退勤後は稽古。劇作家の稲垣さんはいなくて、俳優の丹澤さんのみ。南出さんも顔を出してくださる。丹澤さんはすでに台詞が完璧に入っている。このシーンから始めて、ああしてみて、こうしてみて、と言うとすぐさま対応してくださるのですごい。改めて、俳優ってすごい技能だ。試してみて欲しいことをどんどんやってくれて、動いているだけでいちいち面白い。南出さんと二人であはあはと笑う。それでまた、じゃあこうするとどうなる?と投げかけ、答えてもらい、あはあはと手を叩いて喜ぶ。二時間強しっかりめにやって、三分の一ほどシーンを粗く彫り出すことができた。順調すぎる。稽古期間余るんじゃないかとさえ思えてくる。帰り道はどっと疲れる。

奥さんは労働で追い詰められており、営業のあいつも客のこいつも新人のどいつも夫であるこいつも、猫さえも、みんなみんな私を頼りやがって! と爆発しており、可哀想。奥さんが労働で追い詰められるのは珍しかった。僕がこういうとき、ブス、と冷淡に切り捨てられるので、あまり深追いせず静観。世界一チャーミングなはずの人が、労働で余裕がなくなってまったく可愛くなくなっているさまを見ていると、やはり労働って碌でもないなと思うし、嫌なことする営業のあいつも客のこいつも新人のどいつもどつき回したくなるが、僕自身、労働の現場ではあいつやこいつやどいつと似たようなものだとも思うから、やるせない。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。