今朝は『徹底討議 二〇世紀の思想・文学・芸術』。フロイトの章を読んでいて、カントの物自体って、無意識のインパクトと似ているのかもな、と思う。物自体も無意識も、コギトの限界を示す不可知なものの類だ。たぶん、物自体が不可知であるというのはカントの独創というよりは、当時の思想的通念のようなのだけど、それでいえばフロイトの無意識だっていきなり発生したアイデアものではなく、形成されていく過程がある。あるとき時代の気分を表す概念に結実し、うまく流通するとそれに応じて体系が構成されていく。ぜんぶこれでわかるという雰囲気があり、そんなわけないじゃんという対抗があり、それならこうだと修正が入る。思想はスタティックなものとして暗記しても仕方がなく、状況のダイナミズムの中で捉えなくてはわからない。クラス全員の名前と性格を個別で覚えることよりも、誰と誰が仲いいかとか、あそこが別れたとかのほうが重要みたいな話。
僕のものの喩えはだいたいにおいてわかりにくいが、自分ではいい感じの例示ができているつもりだ。それは、わかりやすくしたり、共感可能性をひらくというのではなく、卑近な具体的状況に置き換えることで事態のこんがらがったわかりにくさを実感しやすくなることをこそ目指しているからだ。わかりやすくなっちゃいけないというか、ややこしいということがわかりやすく伝わればいい。学術的な記述だけがややこしいのではなく——というか、むしろそういうもののほうが逐一順序だって書いてくれているぶん単純である——普段づかいの人間関係の調整やら、日々の家事の工夫のほうがややこしい。それらは未整理だからであり、記述して整理するそばから様子が変わるような動的なものであるからだ。書かれたものを読めないというのは、止まっているものは知覚できない生物と同じようなもので、それは頭が悪いとかではなく頭のよさの種類が違う。
書くというのは、動いているものを無理やり静的に固定することでもあり、その組み合わせで動態それ自体をどうにかシミュレートするものでもある。言語によって制作される標本であり模型。それは代替物による試演であり、だから操作可能だと思える程度にまでわかりやすく簡略化したものなのだ。これをたとえ話に変換するというのは、記述対象であるややこしい対象のほうへと複雑さを足すことであり、抽象的記述からさらに複雑さを引くことはできない。抽象的議論のわかりにくさとは、つまりピンとこないということで、それがどうした?というのがイメージしにくいのだ。だから喩えることで、わかりはしないが、記述しようとしている対象についてはぼんやり把握できた、というのが大事だと考えている。
今晩は結婚記念日のディナーなので、昼ごはんも早めに軽めに済ましたり、面倒そうなタスクや案件は午前中に集中させ、午後にきたものはなるべく明日以降に先延ばしにしたり、コンディションを万端に備えていく。そのくせこういう日に限って面倒ごとが舞い込むもので、冷静に対処しつつ、冷淡に定時であがる。しかし、そもそも定時を超えて労働してみせることが誠意とも思えない。むしろ絶対にこの時間に退勤すると決めている日の方が、全体として見れば成果があるのは、ふだんは漫然とやっている証でもある。
四谷に着くと、狭い坂道を、小雨でよりぎらついた高そうな送迎車が何台もくだっていく。『東京カレンダー』的会食の気配がムンムンする。四谷ってそういう場所なのか。住所には新宿区荒木町とあって、ここがかの、なんか高そうなゴールデン街みたいなとこか、と思う。石段を降りてすぐの雑居ビルに向かうと、目の前に好きな人がいたので声をかけて一緒に入る。南方中華料理南三。奥さんがずっと気になっていたお店で、Instagramに掲載される賄いレシピで夕食をつくったこともある。一日一回まわしで十数席しかないから、すぐに予約で埋まる割に、キャンセルも出るからチェックしていた。結婚記念日の前日にこうして席が空いたからここしかないと思って確保してくれた。二人がけのテーブル席に通されて、わくわく待つ。お互い労働が繁忙ななか、ちゃんと時間通りに来れたことを喜び合う。ビールやレモンサワーを飲んでいると、前菜の盛り合わせがやってくる。すこし暗めの室内、テーブルに対し斜めに射し込む照明の角度がちょっと変だと思っていたけれど、供されるお皿に盛られた料理をビシッと照らし、格好よく映えさせるので見事だった。菜の花冬虫夏草カラスミ押し豆腐、よだれカツオ、ミル貝カニ味噌トマト煮、馬告ピーナッツとシジミニンニク醤油、アヒル塩卵白アスパラ、雲南ハーブ牡蠣。これはInstagramに春メニューとして載っているからこうして日記に引いてこられる。このうにょうにょはなんだろうね、と話していたのが冬虫夏草であることが、今ならわかる。前菜はどれもとびきりおいしくて、ピーナッツが大粒で甘くて香ばしいし、ミル貝のこりこりとした食感とバターカレーのような濃厚さもよく合うし、よだれカツオのタレは茗荷がきいている。もうこれだけで大満足。二皿目は珍味盛りで、羊のソーセージ、猪のソーセージ、鴨の舌の燻製、あと豚大腸に葱突っ込んでパリパリに揚げたのが来る。鴨の細長い舌を初めて食べる。猪だと思う、ソーセージがむっちりしていてとても好き。マスタードやパクチーで味を整えつつぺろり。三皿目の卵炒めは木耳と筍、そしてトリュフが入っていて、ポテチじゃないトリュフは食べたことなかったので楽しみだったけれど、衝撃は木耳だった。これは乾物から戻していないからなのだろうか、ぷりっぷりで、噛むと高らかに鳴る。お次は揚げ物で、海老しんじょと山芋を豚か何かの脂身で巻いて天ぷらにしたものと、付け合わせでバジルか何かの天ぷらもついてくる。塩気と甘味、衣のパリッっとした歯触りと中身のほくほく柔らかいのが面白く、ここまでの料理もそうだけれど、塩気も控えめで、スパイスや素材の風味が嫌味なくそっと置かれる感じがありとてもいい。魚料理は鰆と蛤のレモン煮で、ここにきてしょっぱさが強まる。お酒を進めている想定での味つけだろう。肉料理は羊ステーキで、韮と林檎のソースでいただく。〆はホタルイカとカラヒグ麺(なのかな)で、むちむち食感。ちょうどよく満腹。デザートはドラゴンフルーツと桃樹液の杏仁豆腐で、さっぱりする。食後に供されたお茶はとても華やかでいい香りで、めちゃ美味だった。祁門のいいやつ、みたいな味なのだが、祁門なのだろうか。これはすごいや。大満足で、にこにこ帰宅。おいしかったね、また行こうね、誕生も結婚も、いつも春になってしまうから、夏や秋にもコースを食べようね、と話していた。
奥さんは結婚した時に贈った孔雀のピアスとネックレスをきらかせていて、うっすらピンクがかったカラコンともよく似合っていた。この孔雀は、もう毎年この日にだけ着用される儀礼の品みたいになってきていていい感じ。九年か、と思う。九年、ほとんど毎日一緒に過ごして、大きく不和をきたしたのはコロナ禍の一回きりだろうか。すごいことだ。十年目もなかよく楽しく元気よくやっていこう。
お風呂に入って、猫にかまって寝る。明け方、奥さんがお腹が痛くて呻いているので起きて、おろおろしたり励ましたりしているうち、僕だけが眠気に抗えず、寝落ちてしまった。