共感とやらによって形成される共同性がどんどんよくわからなくなっている。こちらの知っていることを知っている人と盛り上がることに面白さを見出せなくなってきているというか、知らないことを知っている人とのすれ違いや嚙み合わなさにこそ面白さがあるような気がする。色んな人がいる、という手触り。同質性のつまらなさからどう抜け出ればいいのか。
似たようなものが好きな人たちに、いつもの味を提供し続ける安心感というのもそれはそれで尊いのだけれど。僕にとっていつもの味とは、勝手に造語するならば、古典的スノビズムだ。俗物根性という意味では、現代において教養や気取りというのはむしろダサく、政治力と金こそがステータスシンボルとして機能するだろうというあけすけな見立てにおいて、いかに時代錯誤であれ、ノーブルな亜インテリであることを固持しようとするのは俗物としてはかなりいろいろ見誤っているとは思う。それでも、生活において形成してきた美意識を愛で保守することを手放せるほど、そこへの愛着や自己との撞着は小さくない。疑似エリーティズムを脱がない頑固さ程度は持ち合わせてしまっている。
身も蓋もない換金可能なステータスや承認を求める俗物根性と、政治や経済の磁場とはべつの価値体系を嘯く古典的スノビズム。後者のよさへの強い愛着を持ちつつ、前者によって駆動する諸状況をナイーブに否認する身振りに冷や水を浴びせる感じの悪さ。前者の圧倒的優位性を認めつつ、後者の立場をかたくなに保持する迷妄。どちらも持っていなければ、ぺしゃんこになるか、悲しきモンスターになるかしかなさそうに思う。あっけらかんとした生活の保守性と、先鋭化する内輪の理屈の両方をもつこと。已然と未然。二つの原理。文章表現とは、未然を未然のまま現在進行形として感覚させる技術である。
コンテンツも思想もなにもかも共有していない人たちとわいわい喋る練習がしたい。相手を変えるでも自分が変わるでもない、何も生産しない、目的のないおしゃべりが。好きな映画や、嫌いな本が一緒だったとしても、おまえとは仲良くなれそうにないね、という人もいるし、まったく共通の話題が見出せなくてもなんだかめっちゃ気が合うというのもある。あきらかに、気が合うということのほうが大事。しかし、大人になってくるとだんだん好き嫌いの共有でしか友達になれなくなってくるというか、きっかけが作りづらくなる。なぜならすでにあらゆる好き嫌いが血肉化しているから。ものを知らなければ知らないほど友達はできるという暴論を提起しておこう。
早く寝る!