「舎利子」とわたしは呼びかけ、規定の文章を読み上げていく。「実際のところ、あなたのような症状は珍しくない。この症状は生真面目な者に、そうしてある程度以上の規律の下に育った存在に多く見られるものだ。こうした症状を呈する者はみな、意思疎通についての期待度が高いことが知られている。自分からなにも言わずとも気持ちはわかってもらえるし、自分は相手の気持ちがわかると判断している。自分の暮らしぶりは誰からも認められるものであるとわかっているし、自分は多くの者の生活を大切に真摯に捉えていると考えており、自分は右でも左でもない中道であると主張する。全体を俯瞰する目を備え、不偏不党で公正な判断を下してきたという自負がある。言葉はひどく透明なものであり、まるで存在しないと考えていると言ってもいいかも知れない。単語のひとつひとつに躓き、一音一音にためらいを覚えることなどはない。そんなことをしていては魚はおぼれてしまうから。心臓は自らのリズムが外れることに不安を抱いたりはしない。
でも実際のところ、こうして高速、大量の情報のやりとりが実現してみて判明したのは、言葉や気持ちは全く透明なものではなくて、ふとすると、もつれにもつれて機能不全に陥ってしまうものだったということだ。かつてスパイ小説はフィクションだった。フィクションだったがフェイクとは異なるものだった。今でもそれはフィクションだけれど、どちらかというとファンタジーに近いものになってしまったことは否めない。なぜかといえば情報が陰謀が整然とやりとりされるような諜報戦は存在しないことが明らかになってしまったからで、敵と味方の間のクリアなやりとり、だまし合いが整然と進行するなんてことは起こらないと白日に晒されてしまったからだ。これは戦争についても同様で、双方が整然と、相手の意図を読み取りながら先読みの先読みの先読みをしながら争うような戦争の描写は今やファンタジーでしかありえなくなってしまった。おとぎ話としてはそれがいい。なによりもわかりやすいし、何にしたって結末は大して変わりがないから。
つまり、あなたのような症状は、存在しないフィクションを求めて成立させるためにフェイクが必要となった段階で生じる典型例にすぎない。自明な敵、正当な味方、歴然とした証拠。戦争を制御する軍産複合体に、売り上げを優先して人命を無視する製薬会社。自らの利益のために国民を無視する政治家、でっちあげられていく環境問題。お話をクリアにするためにそうしたフェイクを信じることになりがちだ。なぜならばそちらの方が筋が通るし、血湧き肉躍る刺激が得られるからだ。ニューロンのネットワークを簡易に刺激することが可能となるから中毒性も高いし、慢性化しやすい。そうした者たちは言葉が透明ではないことを認められず、この世に意図がないことを信じられない」
円城塔『コード・ブッダ』(文藝春秋)
ランダムネス。作為や意味の不在。歴史に必然はなく、あるとすればそれは事後的に振り返る時に仮構されるものにすぎず、ひとは「物語」を生きることはない。無意味に偶発的に生きた軌跡の膨大な情報量を、いまここにおいて処理しやすい形に処理したものを「物語」という。だからそれは実在しないが、かといっていまここでの意思決定に大きく作用するという意味で実効性をもたないわけではない。
電車では『コード・ブッダ』を読んでいた。思わずくすくす笑ってしまうところも多く、そのたびに隣の奥さんにも読んでもらって一緒に面白がる。次の月曜のポイエティークRADIO では「嘘」の話をしているのだけれど、引用した部分でのフィクションとフェイクの区別を用いればもうすこし整理できたかもしれない。それは録音中に奥さんが提示した、虚構と嘘の区分と対応していそうに思う。構築性を指摘することがそのまま真正さを毀損することになるわけがないのだけれど、なぜか嘘を嘘というだけでなにかを言った気になることができてしまう場面がある。僕が関心があるのは嘘の実効性であり、嘘の質的差異を問うことであるのだが、であるならば、たしかにフェイクとは異なるフィクションというものをきちんと説明できるような言葉を獲得してくほうが良いような気がしている。『コード・ブッダ』は説話的なのだという評を読んで読みたくなったのだけれど、小説というのは読みやすくてすごいなと思う。どんどん読めてしまう。リーダビリティというものに、僕はこれまであまり関心がなかったけれど、読ませる技術、読み易さの偉大さに、最近ようやく興味が湧いている。たぶん、元気がなくて読みづらいものを読み解く気概が失せているというのもあるだろう。カントは楽しく読んでいるのだから、失せきってはいないのだろう。というか、飲み込みやすいフェイクを大量に摂取することへのげんなりがあり、作り込まれたフィクションを解体して点検していくことのほうにこそ取り組んでいたい、ということなのだろう。これもまたきちんと区別して考えるべきことだ。その組み合わせや構築物の入り組み方のほうにこそ難しさがあるべきであり、ひとつひとつの要素それじたいは読み易いに越したことはない。
新橋に到着。汐留美術館でオディロン・ルドンの展示を見る。初めて来たけれど、思ったよりも小さいのだな。一時間ほどで歩けてしまう量だった。パステル画の色彩が好きなのだけれど、今回は木炭画のほうが面白かったというか、黒の濃淡のありようの延長線上にパステルがあるというのがよくわかる構成だった。窓から差し込む光、階段室の暗がりが印象に残った。どちらも黒の表現だった。画集の初版部数が二五部とかで、このころのこの数はどれほどのものなのだろう、所有と閲覧の人数はイコールではなかったろうとは思う。本を所有することと本を使うこととの関係の変遷を知りたい。だんだん固有名詞や年表の面白さに目覚めている。個人の天才というものを信じられなくなって、人間関係や前後の文脈しか重要と思えなくなっているということかもしれない。
銀座まで歩いてお買い物。それから有楽町線で飯田橋乗り換え、東西線で早稲田へ。 Cafeゴトーでケーキを食べる。日曜なのに大盛況で、パウンドケーキとチーズケーキしかなくなっていたのでその二つを頼む。周りのお店は様変わりしている。Cafeゴトーには永遠に残っていて欲しい。ルネサンスが閉店していた。
帰宅してエーステのB公演の前楽のアーカイブを見る。泣く。夕食はイワナの塩焼き。