2025.04.27

ランダムネス。作為や意味の不在。歴史に必然はなく、あるとすればそれは事後的に振り返る時に仮構されるものにすぎず、ひとは「物語」を生きることはない。無意味に偶発的に生きた軌跡の膨大な情報量を、いまここにおいて処理しやすい形に処理したものを「物語」という。だからそれは実在しないが、かといっていまここでの意思決定に大きく作用するという意味で実効性をもたないわけではない。

電車では『コード・ブッダ』を読んでいた。思わずくすくす笑ってしまうところも多く、そのたびに隣の奥さんにも読んでもらって一緒に面白がる。次の月曜のポイエティークRADIO では「嘘」の話をしているのだけれど、引用した部分でのフィクションとフェイクの区別を用いればもうすこし整理できたかもしれない。それは録音中に奥さんが提示した、虚構と嘘の区分と対応していそうに思う。構築性を指摘することがそのまま真正さを毀損することになるわけがないのだけれど、なぜか嘘を嘘というだけでなにかを言った気になることができてしまう場面がある。僕が関心があるのは嘘の実効性であり、嘘の質的差異を問うことであるのだが、であるならば、たしかにフェイクとは異なるフィクションというものをきちんと説明できるような言葉を獲得してくほうが良いような気がしている。『コード・ブッダ』は説話的なのだという評を読んで読みたくなったのだけれど、小説というのは読みやすくてすごいなと思う。どんどん読めてしまう。リーダビリティというものに、僕はこれまであまり関心がなかったけれど、読ませる技術、読み易さの偉大さに、最近ようやく興味が湧いている。たぶん、元気がなくて読みづらいものを読み解く気概が失せているというのもあるだろう。カントは楽しく読んでいるのだから、失せきってはいないのだろう。というか、飲み込みやすいフェイクを大量に摂取することへのげんなりがあり、作り込まれたフィクションを解体して点検していくことのほうにこそ取り組んでいたい、ということなのだろう。これもまたきちんと区別して考えるべきことだ。その組み合わせや構築物の入り組み方のほうにこそ難しさがあるべきであり、ひとつひとつの要素それじたいは読み易いに越したことはない。

新橋に到着。汐留美術館でオディロン・ルドンの展示を見る。初めて来たけれど、思ったよりも小さいのだな。一時間ほどで歩けてしまう量だった。パステル画の色彩が好きなのだけれど、今回は木炭画のほうが面白かったというか、黒の濃淡のありようの延長線上にパステルがあるというのがよくわかる構成だった。窓から差し込む光、階段室の暗がりが印象に残った。どちらも黒の表現だった。画集の初版部数が二五部とかで、このころのこの数はどれほどのものなのだろう、所有と閲覧の人数はイコールではなかったろうとは思う。本を所有することと本を使うこととの関係の変遷を知りたい。だんだん固有名詞や年表の面白さに目覚めている。個人の天才というものを信じられなくなって、人間関係や前後の文脈しか重要と思えなくなっているということかもしれない。

銀座まで歩いてお買い物。それから有楽町線で飯田橋乗り換え、東西線で早稲田へ。 Cafeゴトーでケーキを食べる。日曜なのに大盛況で、パウンドケーキとチーズケーキしかなくなっていたのでその二つを頼む。周りのお店は様変わりしている。Cafeゴトーには永遠に残っていて欲しい。ルネサンスが閉店していた。

帰宅してエーステのB公演の前楽のアーカイブを見る。泣く。夕食はイワナの塩焼き。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。