朝寝坊。起きるとソファベッドで奥さんとルドンが眠っている。顔を寄せ合って、猫の前足が二つともちょこんと人間の首に載っている。たいへんかわいい。はじめはお腹の辺りで丸くなっていたのだけど、目が覚めたらこうなっていた、とのこと。
マルチタスクは健康に悪い。ひとつひとつ、丁寧にやっていく。それが大事なのだという話を奥さんとする。ポッドキャストを聴きながら本を読むとか、アニメを見ながら日記を書くとか、しちゃだめ。僕はどうしても、言語野が過活動気味いうか、つねに脳内で何か言葉が走っている状態で、たまに内圧で耐えきれなくなりそうになる。内発的な発話を抑えつけるためにこそ、極端に高い負荷をかけるようなインプットを続けてしまうのだけれど、それでは余計に疲れるだけだ。物量で圧倒するのではなく、ひとつひとつに集中して取り組むこと。濫読ではなく精読という形で負荷をかけること。あるいは、映画や音楽それだけに享楽したり、ストレッチや体操を一心に行うことで、頭を空っぽにすること。そういうことが肝腎なのだとひとしきり話して、そのあと小一時間、お灸を据えながらアニメを見ていた。これはセーフか。お灸は据えられている間になにか能動があるわけじゃないものな。いや、わからない。ストレッチ中にポッドキャストを聞くのはどうだ。手持ち無沙汰と、あちこち手を出して結局何も実らないのとの見分けが、うまくつけられないでいる。
〔ことばと空間との関わりを一方で強めると〕同時に〔他方では〕、エレクトロニクスの技術は、電話、ラジオ、テレビ、さまざまな録音テープによって、われわれを「二次的な声の文化」の時代に引きすりこんだ。この新しい声の文化は、つぎの点で、かつての〔一次的な〕声の文化と驚くほど似ている。つまり、この二次的な声の文化は、そのなかに人びとが参加〔して一体化〕するという神秘性をもち、共有的な感覚をはぐくみ、現在の瞬間を重んじ、さらには、きまり文句を用いさえするのである(Ong 1971, pp. 284-303; 1977, pp.16-49, 305-41)。しかし、この声の文化は、その本質においては、〔かつての声の文化より〕いっそう意図的で、みずからを意識している声の文化であり、書かれたものと印刷の使用のうえにたえず基礎をおいている声の文化である。書かれたものと印刷は、この声の文化の道具だて〔電話、ラジオなど〕を製造し、機能させるのになくてはならないものだし、それを用いるためにもなくてはならないものである。
二次的な声の文化は、一次的な声の文化と、きわめて似ているとともに、きわめて似ていない。一次的な声の文化と同様、二次的な声の文化は、強い集団意識 group sense を生みだした。というのも、話しに耳を傾けるということは、そうして聴いている〔複数の〕聴取者を一つの集団、一つの現実の聴衆につくりあげるからである。このことは、書かれたテクストや印刷されたテクストを読むことが、個々人をそれぞれの内面に向かわせるのとまさに対照的である。しかし、マクルーハンの「地球村」ということばが示すように、二次的な声の文化において意識される集団は、一次的な声の文化において意識される集団とは比べものにならないほど大きい。そのうえ、書くことが現れる以前に声の文化のなかで生きていた人びとが集団精神をもっていたのは、ほかに代わるべきものがなかったからだが、われわれが生きている二次的な声の文化の時代においては、われわれは、意識的に集団精神をもち、そうすることを目標にしているのである。つまり、〔今日の〕個人は、それぞれが、一人の個人として、社会的な意識をもたなければならないと感じているのである。一次的な声の文化に属する人びと〔の意識〕が外に向かっているのは、内面に向かう機会がほとんどなかったからだが、〔今日の〕われわれが外に向かっているのは、逆に、これまでわれわれが内面に向かってきたからである。(…)
W-J・オング『声の文化と文字の文化』桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳(藤原書店) p.279-280
声は集団意識を育むが、文字は個々人の内面へと注意を向かわせるという指摘は面白くて、僕自身の実感としては文字がもつ共同性のほうにこそ集団に参画する意識をおぼえることが多い。声はあまりに肉感的で、個体差があからさまになる。親しみは確かにあるかもしれないが、それは別個体として隔たる遠さを前提としたものであり、しょせん他人事である。だから声が集団意識の産出を担うというのは直感的にはわかりにくい。
その一方で、文字はいちど抽象化され、かつ物象化されているぶん、フィクショナルな共同の作業場へのアクセスがひらかれている感じがある。そこに書かれていることだけを現場として、検討し、書き継いだり、書き直したりしていける。文字を経由してこそ参加できる共同性の予感を強く持っている。ただ、たしかにこのようなアクセスの感覚が何を媒介にしているかといえば、読む個々人の内面であり、文字の共同性が内面つまり個人を経由することを前提としているかぎりにおいて、集団精神を自明のものとして感覚する一次的な声の文化——つまり文字を持たない文化——とは異質なのだと言われればそうな気もする。そもそも先の声の文化の集団意識についての僕のメモは、集団へ意思的に参加する個人というものを前提としているが、そもそも一次的な声の文化においては集団が先立ち個人意識が希薄だと書いてあるのだから、ここでのわかりにくさは、〈われわれが生きている二次的な声の文化の時代においては、われわれは、意識的に集団精神をもち、そうすることを目標にしているのである〉という事態にほかならない。
このような集団精神の媒介となりうる「声」には、液晶に表示される擬似活字群が加わるだろう。たしか大谷能生が『〈ツイッター〉にとって美とはなにか』で、インターネットのBBSやSNSで交わされる擬似活字とは、笑いを表現する「wwwww」のように、文字でありながら声としての特性を色濃く備えているというか、大半の人間は活字的な思考の形式に馴染んでおらず、擬似活字を口頭でのコミュニケーションの延長線上に位置付けているのではないかというようなことを示唆していたような、本の記述とは関係なく僕が勝手にここまで連想したような記憶がある。SNSの投稿を読み、Like し、拡散するというのは、内省への志向を有するテキストを読む経験というよりも、むしろ〈聴取者を一つの集団、一つの現実の聴衆につくりあげる〉ような経験にちかいのではないか。そうして醸成される強い集団意識が、よくも悪くも大きな影響力をもちうる。そんな季節がかつてあり、まだあるのかもしれず、これからどうなるかはわからない。
気圧のせいで頭が働かないが、さいきんの自分の頭の働かなさが嫌なので、無理やり働かせてみたが、いつも以上の悪文である。整理できていないまま、とりあえず書けちゃうのが日記なのだから、いい。というか、最近は読み易さへの関心をもっているばかりに日記でもそのあたり気を遣うようなところが見え隠れして鬱陶しい。もっと野蛮に書けばいい。どうせもの知らないばかなんだから。うすらぼけがよ。うすらぼけの自覚をもちやがれ。ばーかばーか。なんかムカついてきた。己に。賢しらなふりして賢しらであると思い込み始めている愚か者に。ばかすぎる。ばーかばーか。あんぽんたん。ぶへらぱらりらはらひれぷー。