昨晩はストレッチののち二十三時に就寝したし、久しぶりにコーヒーメーカーのタイマーも設定したし、起きるぞ起きるぞと決意に満たされながら目を瞑ったし、おかげで七時にちゃんと起きられた。やるぞと思ったことができると嬉しい。朝に読む本は小説でないと早起きの意欲が持続しないとわかってきたので、というか、学術的な本は細切れに読むよりガッと読んだりさっと目を通したりするものであって、ちょっとの時間潜って戻ってきてぼんやり頭の片隅に棲まわせておくというのは小説のほうが合っている。で、今朝からは『民のいない神』。のっけからめちゃ面白い。今朝のルドンは食事を終えてホモサピを呼びに二階に上がってきたところで僕が出てきたからか、静かに顔を見上げて、静かに隣に座って、静かに一階に降りて窓から外を眺めはじめた。鳴かれもしないし膝にも陣取られないとそれはそれでちょっと物足りない。
家を出て、電車では『コード・ブッダ』。小説を併読するというのは珍しく、いまは脳のお休み期間なのだと言いきかせる。どうにも人文書を読んでいないと落ち着かないというか、やりたいことをやっていないような据わりの悪さがあるが、べつにつどつど読みたいものを読めばいいだけであって、いまはこういう気分というだけのことだ。気分に任せてなんでも読んだらよろしい。読書には「味わう」のと「使う」のとがあり、前者は享楽的なもの、後者は制作の素材の吟味という感じがある。さいきんは、あ、これは何かに使えるかも、何か書けるかも、という助平心から本を読むことも多いけれど、それは「使う」ように読むほうが勝手がよく、じっさいそうしないと量や幅が際限なく広がるので追いつかない。自己目的的に「味わう」本と、手段や素材として「使う」本とを分けないで、どんな本も「味わう」ように愚直に通読するだけでは、読書生活全体がずいぶん窮屈で忙しなくなる。どちらも楽しいので存分にやりたいのだけれど、いまは「使う」を休ませて、ただただ「読む」に耽りたい。休むためには分ける。分けて、ひとつひとつ、取り組んでいく。食べるときは食べる。作るときは作る。つまみ食いは楽しい。
帰り、スーパー銭湯に行くという奥さんと待ち合わせて一緒に行く。高校生たちが湯に浸かりながら、友達できた?と話していてかわいらしい。アイス最中がおいしかった。夕食を食べながらIWGPジュニアタッグ選手権、退屈な試合だと思って目を離しているうちにベルトを奪取されていて、ショッキング。猫がなかなか一階に降りてこないなと思っていたら、ずっと背面のケージの中で寝ていた。静かだったから気が付かなかった。