『コード・ブッダ』、面白かった。「分かりそう」で「分からない」でも「分かった」気になれるIT用語で書かれた仏教概論だった。プログラミングと仏教。あれとこれは似てる、というアナロジカルな思考の愉悦というのはなんでこうも強烈なのだろう。駄洒落と根は同じだ。重ね、あえて混同し、かたる。その楽しさ。
せき×たむ通信の最新エピソード、とてもよいな。ポッドキャストの概要文や自己紹介をふたりで添削することで、自他の輪郭をよりしっくりくる形に整えていく。タムラさんの声が、ちょっと楽しくなってきた、と弾み、セキニシさんが、ええやん、と落ち着いたトーンで応える。ここのセキニシさんの声音のやさしさにグッときた。友達への気遣いと友愛に満ちた声の調子だ。このような、ある人にしか向けられないはずの親密な声音を聞くことができてしまうというのがポッドキャストの一つのよさであると思う。
十三とか十四歳くらいで、おおむね個々人の世界観というものが形成されるとして、そこから数年の経験や研鑽を経て、早ければ二十代前後で環世界の独自性を世に問うことができる程度の出力を完成させられる程度にいたる。ふやふやのかわいい肉塊から幼児期の発達を経て、ここまでの二十年というのは個人史において信じられないほどの速さと密度、めまぐるしさであったことだと、以降の十年でようやく思い当たるというのが二十代中盤の停滞感で、それが停滞感ではなく、人類史からすればこのくらいの速度で変化していくのが普通なのだと思い当たるのが三十代初頭である。生誕からの二十年の成長曲線というか世界観の変動および凝縮ではなく、二十歳から三十歳までの緩い振動と微調整のほうをよりユニヴァーサルなものあると見做すこと。さらには、自分がこの身でもってこれまでに構築してきた世界観への愛着の強度を自覚することで、個体間での世界観の差異への認識が芽生え、そう簡単に修正できるものではないどころか、干渉さえ困難である、そもそもそんなことをすることが倫理的に是とされるとも思えないというような、要してしまえば「人それぞれ」というようなことをようやく体得していく。ここに至ってようやく、人は年表に関心を持つことができる。一年や百年の重みと軽みを、社会構造や技術の変遷、それに伴う生活感覚や生活様式の否応ない変容、その痛みや昂揚や盲目を読み取ることができるようになる。このようにして中年は歴史にハマる。すくなくとも尊重するようになる。
これは一般論ではなく、あまりに愚鈍な個人の実感にすぎないのだけれど、少なくない人にそこそこ適用可能な気もする。
なんというか、観念的でない、きちんと地に足のついた人間をやれるようになったのはようやくこの数年になってからのことだなと思う。それは観念の普遍性を信じられなくなったということでもあるというか、理屈の上では正しい、理念としては瑕疵がない、だからなんなんだ? という現実との折り合いのつけ方にようやく取り組みだしたということでもありそうだ。そうか、たぶんそういう関心でカントを読み始めたのかもしれない。僕はもう、とにかくまずは生活の話がしたい。加齢に伴う保守化の典型だろうか。理屈からいえばそうなのだろう。けれども、クリアカットな記述よりも、錯綜した日々の調整のほうにこそ、取り掛かるに足るだけの複雑さや、試行錯誤しがいのある面白味を覚えるというのが本音だ。
若いころは教祖になれる気がしていた。いまは、自分が隅っこでないがしろにされるようなパーティを開きたい。みんなが楽しそうにしているところを眺めていたい。
いま演出として関わっているカハタレのお芝居の稽古にはそういうところがある。演出のすることとは、つまるところ、場を準備して、遊んでもらい、楽しい感じが醸し出されるのを嬉しく思う、それだけな気がする。
脈絡はないが、おいしくもお洒落でもない個人店みたいなものでいたい。