2025.05.08

きょうも横浜まで出る。奥さんはクラッシュのぶんこの二週間で四度目の往復五時間。今日はバスを使うルートで行く。長く座れたのでほっとする。何度も再開しては中断している面白い本を読む。そっけない装丁は教科書のようでもあり、謎に紙の目方があるからできれば電子を出してほしい。

とるにたらないような日常の具体例や、いうまでもないようなことを足掛かりに、簡素に組み上げられていく議論はとても気持ちがいい。すごいことをしている、と思う。難しいことは何も書いていないのに、その緊密さにくたびれてあまりたくさんは読めない。社会秩序とその変化を、相互性、共同性、社会性、集合性の四つの概念だけで記述するという試み。まずは相互性について、二者間の関係としてとらえ、それは互いに「それでよければそれでよい」という納得にもとづいている。「それでよければそれでよい」のだから、そこには第三者からの価値判断は無用である。並んで歩くとき、速い方に遅い方が小走りで合わせるのか、遅い方に速い方が歩調をゆるめて合わせるのか、そんなことは外野からなにか指図するものでもなく、互いに「それでよければそれでよい」のである。とはいえ、速い方が遅い方に合わせる方が苦労が少ないのだからそうするべきでは、というような規範意識もありうる。このような規範性は共同性に基づく。このような人の行動を外側から誘導する共同性は、相互性における二者間の納得の延長線上に当然現れるというものではない。むしろ両者は断絶している。二者間では納得さえあればよかったが、三人以上の共同体においてはそうもいかない。それでは共同性とは何か。それは生産と消費の代行し合う集団であり、とくに消費を代行する集団のことを家族とする。

はじめに引いた約束の話は、「それでよければそれでよい」相互性を、将来においても持続させようという意志であり、約束という第三項をおくことで、共同性のほうへと傾く契機でもある。〈未来へとむけて希望を共有すること〉で、関係を持続させ、たとえ持続しえなかったとしても〈約束し、それを楽しみにしていたという事実は残る〉。人は、他人と〈約束し、約束し直し、自分を変化させつつ時間の流れを生きる〉。MANKAIカンパニーのフルール賞、あるいは「咲かせる」というそれぞれの団員とカントクの二者間での約束とは、そのようなものである。約束は、すぐさま現在を過去として感覚し、いつかの未来から振り返った時、胸を張れるものであることを定める。いつの時点で思い出しても誇れる今とは永遠である。

第二の引用の前後を考慮して、たとえば三角を探すという消費を、夏組メンバーが代行することは、まさしく家族という共同性の要件を満たしているといえそうだ。初代組や、劇団百花との関係を援用して、社会性と集合性の話もできそうなのだが、僕はまだそこまで読んでいないので勘違いかもしれない。帰り道はくたくたで、本を読めなかったので文フリの告知などをした。久しぶりにSNSをたくさん触って、くたびれる。いや、くたびれはしないか。ずいぶんぞんざいというか、やる気がないな、と自分でも感じる。身が入ってない。人と会うのは楽しみだ。

朝食は関内の終日営業の餃子屋で、観劇後のお昼はかるめに悟空茶荘でとる。夕食は帰宅して、ゆでいわし、ゆでいか、唐揚げ、キムチ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。