七時起きは諦めて、七時半まで眠る。七時十分に鳴くルドンは奥さんがかまいに寝室を出て、図書室のソファベッドで添い寝。コーヒーとクリームパン。出支度を終えて『民のいない神』。隣では奥さんと猫がぽかぽか寝ている。猫は手が、人間はほっぺが可愛い。
カハタレとして丹澤さんと南出さんが府中のラジオに出演したのをアーカイブで聞いてにこにこする。しかし音もホストのまわしもけっこう稚拙だな、とも思う。こういうことに気が向くようになってきている。
元気がないのは、日記が重荷なのかもと考えてみるが、むしろ日記がおろそかになっているから不調なのかもしれないとも思う。毎日書く、そのつど書く、日々の即興。思考や感情の代謝が滞っている。日記の不調は便秘。そりゃ顔色も悪くなる。
仕事を早退して映画館。タイトルがかなりダサい気がするし、覚えられないし、ふだんだったら見なさそうな映画。シャーク鮫さんが激賞しており、「心の砂地#」のエピソードを聴かないまま、信頼だけでチケットを買ったけれど、開映まで時間があったのでけっきょく聴き始めてしまい、限界までハードルを上げて臨んだ。結果、とてもよかった。たぶん僕は原作の小説はかなり大嫌いだと思うのだけれど、脚本に反映されている台詞がおおむね原作準拠だったとして、そのテキストとしての圧倒的貧しさ、展開の安っぽさこそが映画としての面白さに奉仕するものになっていて、小説としての瑕疵がすべてショットの素材としての魅力になりうるという反転は、まさに映画の醍醐味といってよい。日常的な瑣末な会話や所作が、そのまま詩やダンスになりうること。そのための調音と調光。出会いによって、後景に退く若者たちのはしゃぎ声、より前に迫る雨音。埃や犬の毛が日光を受けて煌めくこと。カメラと対象との距離がそのまま恋愛の比喩になってるのがすごい。僕は映画に、日常のダンスに気がつけるような、酷薄な距離に置かれたカメラの方を求めている自覚があるのだけれど、『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』を見て、アップで撮るという行為の意味をここまで積極的に引き受けることができるのかー!と驚き、これほど計算と意志とを漲らせたカメラであれば、アップもまたよい、と思えた。ただし、僕はやはり、頭からつま先まで収められる距離に置かれたカメラが無機質に映す、止めどない後悔と親愛と悲しみを吐露する姿にこそ映画を感じる。いや、それでもやはり、その同じ体を、顔を大映しにして繰り返すシーンに至って、こりゃすごいや、と嘆息もした。恋愛とは、アップの肯定なのだ。大きく寄って撮ること。それは対象の詩情を損ね、ダンスを見逃す悪手であるが、それはそのまま恋愛の愚かしさそのものでもある。あるいは、アップになる顔とそうでない顔の峻別、そもそも撮るという行為の暴力性を限界まで素朴に誇張して見せる本作は、ほとんどバイオレンス映画でもあった。Shoot me. 私を撮って/撃って。『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』の掛詞。
帰宅して奥さんに映画の概要をおしゃべり。きょうはすこしだけ調子がいい。顔色も戻ってきたとのこと。