2025.05.13

原田真央『うまれる通信』を読む。とてもよかった。「母」という抗いがたいひとつの名の集合に、自身もまた飲み込まれてしまったという取り返しのつかなさを記述しつつ、滲み出るのは個としてのこだわりや趣味判断である。どこにでもいる誰かに成り果てた後にこそ、他の誰かではありえない個人としてのありかたが浮き彫りになる。

がむしゃらにほかの誰でもない我を確立しようとする時期にある人々は、つねに似たり寄ったりである。そのような凡庸さを離れ、その人の固有性が成立するのは、他の誰とでも似ていうるという自身の凡庸さを引き受けた後なのだ。

自身への固有性への幼稚な愛着を、長らえてなおいつまでも保持しうる、というのが男性についてまわる成熟の困難の根因のひとつであろうし、逆に、女性の側にだけ成熟を強いるような構造じたい、男性側があまりに気軽に行う暴力によって形成されているということも、本書では示唆されている。

出勤した日のほうが日記が捗るのは、この日記が結局のところ視点を共有していない奥さんへ宛てられたものであるからだろう。家にいると直接おしゃべりできるからそれでいい。わざわざ文字で書くとは、いま目の前にいない人に何かを伝達したいという必要があるからするものだ。ここに好きな人がいないから、書いておく。近くにいればさっさと話して忘れていったようなことを。

『うまれる通信』の感想は久しぶりにまじめにツイッター跡地に投稿した。書いた人に伝えたい内容だったから。僕はやはり読む側の人として、書く人にどう読んだかを届けるために文字を書く。これもまた、時間と空間が同期していない人と交流するための手段としての文字列の使用だ。であれば、交流可能性の高い場で書く方がいい。手段そのものに美意識をもつことはたいへんなことだけれど、美意識に殉じて手段の位相で目的達成を損ねてしまうというのはナンセンスだな、それもよくないほうのナンセンス、そう思い直す時期が来たようだった。もっと早くこの気分になれていれば、文学フリマの宣伝とかももうちょっとちゃんとやって楽しかったのかもしれない。まあそれは、しょうがないこと。告知がしたいのではないのだから、それだけに徹しようとしても無理があったというか張り合いもやる気もあったものじゃない。インターネットでは、僕はいつだって出会い厨でありたい。面白そうな人たちとLINE交換して、会う約束して、どこ住みなのか聞いて、会いに出かけていって、わーわー喋ってみたい。文フリだってそういう社交場というか、ふわっとしたオフ会の会場だと思っているぶんには楽しい。売るとか考えると面倒になる。売るのも楽しいのだが、それは営業がコミュニケーションの有効な手段たりえるからであって、売るのが目的ではない。売るための手段をがんばるというのは転倒していて、売ることを手段として友達を増やしたいのだ。

目的を先において、そのつど手段を検討する。有効性やコストなどを測り、やったほうがいいならやる。手段への潔癖や、あるいはその裏返しとしての目的軽視が、この数年の気分を支える思考法であったように思う。目的は手段の不正を正当化しないけれど、手段への価値判断がそのまま目的への評価に繋がるわけでもない。まず目的への素朴な批評があり、手段へのそれはその次に来るものである。というか、ふつうに目的が主で手段が従なのであって、それぞれにおいての不正は、目的とか手段とか関係なくただ不正であるというだけの話なのだ。で、不正というのにも程度があって、まじで道義的に許せるはずがないというものから、個人的な好悪に照らし合わせてダメ、というのもある。自分はダサいと思うし、なんなら害悪でもありうるとは思うけれど、目的遂行のためならまあ許容してもいいか、という妥協もありえるし、そこで妥協せず貫くもののほうを大事にするというのもある。後者は手段をも目的として扱うというか、手段がそのまま目的を体現するというタイプの実践で、前者はたとえば流通と制作とを割り切って別のものとして考えるタイプのそれだ。また前者においては、妥協していい範疇であるという判断が妥当な場合のみ、目的は手段を正当化するという言い回しで許容されるのであり、さすがに看過できない不正もある。なんかこのへんがごっちゃになってしまっていた気がする。いや、もとより綺麗に二分できるものでもなく、どんなときもこの両面がある、という話なのだけれど。手段と目的の話は、形式と内容の話とも相似でありえ、だから結局は、どちらかではなくどちらも大事、なんなら両輪で考えなければ考えたことにならないものである。だからまあ、よりあけすけに言えば、近年は手段への好悪だけがあり、目的が空疎である事例が多かったということかもしれない。目的もっていこう。では僕の目的とは? なるべく多くのみんなで楽しくやっていく、ということです。

さて、文字は、いま目の前にいない人のために書かれるという話だった。奥さんとのおしゃべりではよく、いない人の話しないで、と苦言を呈される。二者間でのおしゃべりは、お互いに「それでよければそれでよい」という納得さえあればいいので、その場にいない人の価値判断というのは無用なのだ。翻って文字による伝達は、どうしたって第三項としての他者を呼び込む。いない人の話を、いない人に向けてするものである。書くことは、しかし、それでもおしゃべりの一種であると感じている。ここにはいないというだけで、誰かとおしゃべりができなくなるというのは嘘だからだ。すぐれた散文は、否応なく潜り込んでくる第三者を巧みに躱し、あくまで宛先がただひとつ今まさに読みつつあるその読者だけであるかのようにして書かれる。書いてさえしまえば、そこには宛先が生まれてしまうものなのだ。その宛先は、いないが、いないからこそ誰でもありえ、誰でもありえるからこそただ一人でしかありえない。ずいぶんと神学めいてきた。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。