午前中は『映画史』を見る。4Aがよかった。ドニ・ド・ルージュモン『手で考える』の引用らしい長いモノローグ。
精神は存在を表明する時
真となる
表明mainifesterという語には手mainが含まれる愛は精神の極み
隣人愛とは一つの行為
差し伸べられた手
イェリコへの途上で
暴徒に襲われた者に説く理念ではない警察 プロパガンダ 国家
それが手であり
人間の理性がその姿に似せて創った暴虐な神の名だ
テキストとオブジェの両面で浮かび上がる手のイメージ。頽れる人体。
言葉が崩壊し
贈りものの意味をなくせば
崩壊するのは人間的な友愛
それが人民の不安だ
もとより物質的なものでなく
友愛の死から生まれる
心と精神の不安だ神秘の声は信じない
事実の呼び声に信を置く
時と我々が生きる場所を
その正確な状況とその呼び声を察知しよう
判断を下すのはその後だ
車のライトが夜に滲み、黒地に点在する色として配置される。
今日のこのヨーロッパの2種類の国家
古びた国家と若返った国家
幾多の可能性を得たが自由の使い道が分からない国家
いくつかの戦争の後に大衆革命を経た国家
言論の自由はあるが情熱に欠ける国家
迫り来る能乏を待つことしかできない国家
窮乏が最終論拠で近代的共同体の最終基盤
我々のドラマや思想 行動
ユートピアさえ背景をなすのは窮乏だ問題は独裁者の考えや物費的な切迫性でなく
より高い真理であることは明らかだ
人間の高みにある真理
私なら “手の届く”と付け足す
今こそ思想は再度姿を変えるべきだ
思想家には危険な現実を変質させるものに
リルケは書く
“創造する処で私は真だ”
思考する者も 行動する者もいるが
真の人間の条件は手で考えることだ
反復される手のイメージ。人間の手はモノを扱う。
道具に非はないが
使えるものになって欲しい
危険は道具にあるのではなく
我々の手の弱さにある
機械のリズムに身を任せた思想は
自らをプロレタリア化する
そんな思想は創造を糧にしない”他者が人間を形成する”
だが——
他者とは誰か
今やそれがわかる
思想の放棄から生まれた諸々の法だ
責任はどこに?
党でも 階級でも 政府でもなく
人間一人一人にある
私もその一人だ
皮肉に引き裂かれ怒りに駆られるほど
さもなければ叫ぶまい
火焙りにされる女性。
沈黙は努力の賜物ではない
沈黙と哀れみを誘う知性だけが赦しの賜物”不在を支配するのはあなたで”
”私の仕事ではない”と詩人は言った真の暴力は精神的事象だ
創造行為はそれを行う人間には脅威だ
だからこそ作品は人の胸を打つのだ
ポルノ映像と『フリークス』が重ね合わされる悪趣味なシーン。
思想が重みも暴力も差し控えれば
それにより解き放たれた蛮行に身を晒すことになる
フランスで再び精神活動が刑罰の対象になれば
精神が深刻さを取り戻す
想像の決定がなされる場所とは個人
つまり世界の動乱も
私に行動を強いる瞬間に明らかになるある種の問いと変わらない
”我々”を支持する者は誤っている
世界の矛盾は存在の根源をなす方程式に現れる
Xとは個人で創造的要素で軽量化不能の自由だ
人間としての人間は
まさしく創造者だが
創造された創造者だ我々は希望のうちに救われるが
この希望は真実だ
時は行為を破壊するが
行為は時の裁き手だ
昼には出るつもりが、なんだかんだでちんたらして、それでもようやく出かけていく。電車で『民のいない神』を読み終える。二五〇年ほどのタイムスパンをジャンプカット的に繋いでいくことで、懸隔を埋めるような何かをつい見出そうとしてしまう。そのような読みの性質を問うてくる手つきに『HYPERTEXT#1 カウンターカルチャーと陰謀論』と通じる方法論を感じた。ある個人が特権的に占有できる「真実」などどこにもないのだと、砂漠の空漠に託して語られる。
本屋lighthouseで本を買う。意識していたわけでも、まったく意図していなかったわけでもないけれど、レジに持っていったのは注意やイメージについての本ばかりだ。
これは些細な問題ではありません。この問題をより切実なものにするための一つの方法は次のように問うてみることです。つまり、それによって私が冷淡になってしまうのならば、なぜ私は知識に裏付けられた美的判断を気にかけなければならないのだろうか、と。知識に裏付けられた美的判断は何の喜びも与えてくれませんし、個人的にはまったく重要ではありません。結果的に芸術にかかわる楽しみが減るのであれば、なぜ美術史や二〇世紀フランス文学史についてもっと学ぶべきなのでしょうか。
この難問から抜け出す方法が一つあります。美的判断はそれほど楽しいものではありません。一〇代のころにしたような素朴な判断も、いましているような知識に裏付けられた判断も、どちらも楽しいものではありません。一般に、判断を下すことが、やりがいがあったり、愉快だったり、楽しいものであることはめったにありません。他方で、経験はやりがいがあったり、愉快だったり、楽しいものであることが頻繁にあります。同様に、判断を表明することを、個人的に意味があると感じるようなこともめったにありません。経験は、個人的に意味があると感じるようなことです。それゆえ美学は、判断ではなく経験を主題とすべきなのです。これらの経験は判断につながることがあり、私たちはその判断を他の人に伝えることもありますし、それは任意の素敵な付加物(ルビ:アドオン)ですが、判断につながらなければならないわけではありません。
私たちがこれほど多くの時間やお金を費やして芸術作品にかかわるのは、それに対して美的判断をしたいからではありません。それは、芸術作品とのかかわりの中で得られる経験が、楽しく、やりがいがあり、個人的に意味のあるものとなりうるからです。判断ではなく経験なのです。
私たちは、知識に裏付けられているか否かにかかわらず、美的判断の概念一般から離れようとすべきです。芸術作品に美的にかかわることの目的が、美的判断を下すためであることはめったにないのであって、「西洋」の美学理論はこの事実を尊重すべきです。私たちは、美的経験の時間的な展開に焦点を当てるべきであり、美的判断を表明するという(明らかに任意の)終着点に焦点を当てるべきではないのです。スーザン・ソンタグが述べたように、「芸術作品として出会う芸術作品とは経験であって、言明や問いへの答えではない」のです。
ベンス・ナナイ『美学入門』武田宙也訳(人文書院) p.93-94
この本はさっそく道中で読み終える。いい本だった。楽しく読み書きし続けることの困難というか、浅知恵をつけたあとでなお無邪気にはしゃぐことについて考えていた。途中で銀座のエルメスで「スペクトラムスペクトラム」を見たのもよかった。会場を回遊する自分が、複数のカメラによって撮影され、それぞれ別々に設定された時差を伴って投影される。それらと不意に出くわしながら、まじめな顔で電柱に残された犬のおしっこの跡を鑑賞する。笑えた。
奥さんと待ち合わせして、期間限定で間借り出店しているINDIA GATE でビリヤニを食べる。カツビリヤニは前回渋谷に出展していたものよりも改良されていて、とてもいい味だった。ふっくら炊かれた出汁の効いた米と、細かく挽いた粉で揚げた薄めのカツは、両者だけではあまり引き立たない組み合わせなのだけれど、塩気を抑えたかっこういい台湾ミンチの旨味や、あんかけのニラの青い風味が全体をまとめている。ご馳走だ。ぶどうとマスカットのアチャールもたいへんよくて、酢とマスタードシード、あとあれは油もマスタードオイルだろうか、塩気と甘みそれぞれの酸味がぐっと立ち上がって、これは家でも作ってみたい。鯛出汁のビリヤニは何度食べても大好き。付け合わせの麻婆豆腐も、辛味や塩気で塗りつぶされない、豆腐やひき肉の風味があり、スパイスを臭みの糊塗としてでなく、風味の補助として使う手つきに感心する。いつか京都のお店にも行こうねと話す。行きたいところがたくさんある。うれしいことだ。