五月のカハタレの本番以来、僕自身は出演とかしていないにも関わらずずっと疲れていて使いものにならず、演劇やるのってやっぱりすごく体力と気力を持っていかれるな、と思い知る。今晩の公演は、労働日なので行けるかどうかわからない。演出する舞台の本番を確認できないというのはどうにも落ち着かない。
きのう、好き勝手に原稿書いて、ようやく元気を取り戻してきた。一人で書くのはいい。ひととの制作はやっぱりすごくたいへんだ。だからこそいいところもたくさんある。そんなことを考えながら冊子の原稿を仕上げる。
労働してると、コミュニケーションや理解のためのコストを払う気がさらさらない人の多さが可視化される。だから、なるべく多くの人が考えなくていいようにするために、こちらがすべてのコストを代わりに負担するという発想に慣れてしまう。そのせいで、退勤後の生活で「そのくらい汲み取ってくれ」みたいな態度で接してくる人への寛容さがどんどん損なわれていくんだけれど、いや、ふつうに汲み取ってあげなよ、と我に返ることが大事。
誰かの世話することを労働としか考えられなくなるの、よくない。近代資本主義社会で生きるものたちの悪い癖だ。
「良識的」な人々をおちょくり苛立たせるラディカルさに、いつからか素朴な親しみを抱ききれなくなっている。そのことに戸惑い続けている。苛立つということはない。ただ、そのやり方ではけっきょく何にもならない、というような無力感が募る。
散漫な思いつき。こうして並べていくと意味めくが、あまり関連させるつもりで書いてはいない。きょうの労働はなんとも微妙で、新里アズばりに「ムリ」「マジムリ」と連呼するコンディションであることに気がつき、さっさと退勤することにした。新里アズの「ムリ」は、御堂筋翔の「キモ」と同じで、自分に向けられた刃を引き抜いて血が流れそれでもさもなんでもないことのように振り回すものなので、疲弊した賃労働者の発するそれとは重みがぜんぜん違います。
江古田にカハタレ×怪談を見にいく。とてもよかった。稲垣さんの戯曲は置く場所でずいぶん印象が変わるが、語りの志向が強いので、怪談と組み合わさると怪談としか思えないものになる。そもそも分身というテーマ自体、この自己というものを固有性や自明性を揺るがせにするものであり、ホラーと相性がよい。蛙坂さんと鈴木さんの怪談会もよかった。文章家である鈴木捧の語りを聞けるというのはかなりレアな機会であるはずで、朴訥とした語りに耳を傾けながら、この素材をどのような描写へと構成していくのだろうか、と期待が膨らむ。
帰宅して、奥さんにきょう聞いた怪談を再現して聞かせる。