来週に向けて『ダロウェイ夫人』を読み返す。ノートを作っていきたかったのだが、半分も読めないまま一日が終わった。光文社古典新訳文庫の土屋訳がどうにも嫌だ。面白さのほとんどが削がれているように感じ、じっさいどうなんだ。と英語版を手配して読み比べるがやはり好きではないタイプの翻訳っぽい。手に入れづらさは置いておけばまだほかに五個くらい翻訳が出ているようだから、いつか比較してみたいところ。今はそこまでの余裕はない。人と話すために何度も読み返すというのは、これは、要は読書会だな、と気がつく。そう思えば気楽だが、ノートは作りたい。週末にはカハタレの本番もあるので、なんだろうな、時間のやりくりというよりも、気持ちのやりくりが難しい。何事も、集中して取り組むためにはそれぞれに適した状態というのがあって、要は切り替えの困難であるのだが、日々を慌ただしく過ごしていて、さあ、ここから穏やかな気持ちで、これだけに専心して取り掛かるぞ、とは容易にならない。今日だって、二回の洗濯と、昼夜の食事の準備と、そのほか家のことに頭を使ったり手を動かしたりしていたら、本なんか読めなくなった。生活やりながら本読むの、けっこう繊細な舵取りなんだよな、豪快にぶっちぎるというのは、もうできない。人と仲良く暮らしていきたいのであれば、やってはいけない。しかし、もどかしいな、すべてをうっちゃって本だけ読む鈍感さを持ちたいな、と思ってしまうことだってある。今日はそこまでは思ってない。困ったな、とは感じている。なにぶん期限があるものだから、焦りもする。しかし、焦っていたり、気持ちが波打っていては本は読めない。なんなんだよ。諦めて家を出て、電車に乗る。電車でこそ本が読める。いっそずっと電車に乗っている日を作ろうか。
丸の内ピカデリーで昨年立川であったエーステのライブがかかっていて、三面スクリーンというものを試してみたかった。交通会館でスキンケア用品を買っていたら開演ギリギリになってしまい焦ったが、意外と始まらず、客も皆ロビーでダラダラしていたので拍子抜けした。ペンライトはひとり二本ずつ持ってきていた。冒頭の演出で泣くことは決まっていた。だから遅れるわけにはいかなかった。咲也の笑顔、椋の挨拶、綴のたいへんなんすよというはにかみ、毎回泣くところでしっかり泣き、きょうばかりは陳内将の天馬、宮崎湧の幸、赤澤 遼太郎の太一が映るところでもべそべそしてしまう。このころは、まだこの三人じゃなくなる未来なんて考えていなかったよ。三面スクリーンは、案外視野に収まるもので、むしろ劇場で見るよりも全体を一望できる面白い体験だった。よかったね!と満足して、帰って作っておいたカレーを食べる。一晩くらいの時間寝かせたことになるのだから、味も落ち着いてとてもおいしかった。