本を読むことを専業にするというのはすごいことだな。いま、忙しくて本が読めず、しかしその忙しさの原因の一つに仕事で本を読まなければいけないというのがあり、しかしこの本は、タスクとして処理できず、穏やかな安らいだ気持ちで悠々と読まなければ仕事にならないタイプのものである。仕事として「楽しくのびのび読む」ってどうやったらできるんだ。しかし、考えてみれば普段の労働も、「緊張下においてリラックスして振る舞うこと」が求められる場面というのはありふれているようにも思う。場数しかないのかもしれない。
で、まあ、必要があって『ダロウェイ夫人』を何度も読み返しているのだけれど、集英社の丹治愛訳と原文とを読み較べ、光文社文庫版の土屋訳は大嫌いだと確信が深まる。均衡を信奉し、人々を抑圧するサー・ウィリアム・ブラドショーのような訳業だと思う。土屋訳で再読しようとして、こんなに面白くなかったっけ?と戸惑っていたのだけれど、こちらで読むと嬉しくなるほどいちいち面白い。いい天気の日に歩いていると、わけもなくごきげんになってくる。そのような多幸感。陳列された商品を眺めたり、音楽を聴いているとき、ふと嫌いな人のことを思い出して気持ちがささくれ立つ。夜風に吹かれながら、孤独だと思う。往来の中でいきなり、ここにいる誰よりも不幸だと思い詰める。そのような、あまりにありふれた気分の移ろいが、そのままぎゅぎゅっとここにはある。こちらの翻訳は、乱暴に扱うとすぐ壊れてしまいそうな脆く未然の情感を、そおっとそおっと日本語に移し替える手つきが見える。他の翻訳は手に入れづらいが、あれこれ読み較べてみたい。
とにかく忙しく、労働もちゃんとやりつつ、夕食の準備もしっかり行い、食後は稲垣さんとZOOMを繋いで朗読劇の稽古。音読ではなく朗読、それも劇にだんだんなっていく。稲垣さんの指示は、やりづらいな、と思うこともあるのだけれど、自分が演出の立場として見るならそういうだろうなというのもわかり、この体でどこまでやれるかはわからないが、とりあえず言われたことを言われた通りにやってみる。納得はあとからついてくるというか、とりあえずは見え方については演出を信じて、違和感を押しのけてでも指示通りにやってみる。しっくりはこなくても、はたから眺めてどう見えるのかの見当はつく。それで充分なので体感としてしっくりくる必要はないっちゃない。やっている側の感覚よりも、どう見えていて、その見かけが動作するかだけがある。どれだけ切実であろうとも、書かれた文字が面白くなければ面白くないというのと一緒だ。行為者の意図や気合いでなく、行為それだけがなにものかになりうる。稽古を重ね、いまだにやりにくくはあるが、たぶんけっこういい感じなんだろう。自分を演者の側において振る舞うというのは新鮮だった。ある程度思考停止して、人形として動かされることで突破できるものがある。
寝るまで『オブラ・ディン号の帰還』。