朝から奥さんは健康診断からの散髪で不在。本を読んだり、概要をきくかぎり闇の『A3!』としか思えない『華Doll*』をながら見したりして過ごす。レンタルしてみた食洗機が届くのを待っていたのだけれど、置き配指定で音もなく置かれており、もうすこし早く気がつければ。ひとまず開梱とセッティング。アースのついている電源がシンク側にないので排水用のバケツを用意して試運転。なんとかなりそう。さっそく昼食の食器を放り込んで任せつつ、自分も出かけていく。本は満足に読んだので、移動中はiPhoneにダウンロードした『アメリカン・グラフィティ』。ありふれたノスタルジーを描いた作品として紹介されるし、初見の時はかろうじてアメリカではそうなのかもとも感じた気もするが、いまみるとさっぱり理解できなくて面白い。
TOHOシネマズ日比谷で奥さんと待ち合わせ。開演時間になっても現れなくて、はやくしないと紙兎見れないよ!と連絡する。見事うっとうしい思いをしないで済んだ。念願の『MAXXXINE』。なんじゃこりゃというワンダーや、そうきたかという驚きはなく、見たいものがその通りに配列されていた印象で、すこし物足りなかったけれど、帰り道に考えているとじわじわかなりよかった気になってくる。『Pearl』が母娘の話で、今回が父娘なのだけれど、巨大な家父長はハリウッドと重ねられるかと思いきや、マキシーンと男社会としてのハリウッドとのあいだには毅然と立つエリザベス・デビッキがおり、直接的な対立が回避されている。父なるものはむしろ、一九八〇年代のモラル・パニックであり、これは娯楽産業への反動である。これはたしかにこれまでの二作からしても一貫してはいるのだけれど、明確にハリウッド映画の自己言及となる本作については、もっと正面から父なる映画産業の男性性を相手取ることを期待していたから——ヒッチコックへのオマージュの連発も、そのような批判精神が有って初めて批評性を帯びるだろう——、わりあい屈託ないハリウッド幻想の再生産に終始する。物足りなさはそこにあったのだろう。ただし、パールから連なる彼女たちの「自分らしい生」の追求とは、剥き出しの実存そのものではなく、むしろ虚飾に彩られた「こうでありたい生」の実現であるのだから、ひとまずは演じ続けること、欺瞞であることは承知のうえで華やかな嘘を生きることを選択するという主体性を貫徹する物語として考え直してみると、筋は通っているような気もしないでもない。単純で起伏に乏しいプロットを追いかけることなく、ただルックのよさだけに注目するようにして再見するとまた違ってきそうだった。