2025.06.18

引越す前から寝室には冷房がなかった。いまの家もけっきょく冷房をつけなかったから、昨夏はクーラーのある図書室との扉を開けて扇風機を駆使してなんとか涼しい空気を流し込んでいたけれど、猫が来て、寝室と直結している図工室には猫に触れてほしくない工具や、猫にとって毒になる植物で溢れているから、開放するわけにはいかない。そこで、マットレスを図書室に出して寝ることにした。ルドンを迎えて半年、初めての夏、とうとう猫と寝ることになる。夜の間はマットレスへの警戒か、いつもの縄張りになんかでかくて邪魔なものが置かれているぞ、という顔で遠巻きに見ているのだけれど、明け方に起きると、足の間や、脇の下でそっと眠っていたりする。七時のごはんを終えた後、寝室にいるときははやく顔を見せろと鳴いて起こされたけれど、最初から姿を見せていればそこまでしつこく鳴くこともなく、あいさつ程度に大きな声でナー!とひと鳴きして、それから、そそそ、とヒトのそばに寄ってきて寝転ぶのでむしろ二度寝が捗る。けさも寝坊。涼しい部屋で寝ると体が元気だ。しかし、日中の陽射しで温められた部屋を基準に設定すると、朝にはすこし冷えすぎる。

サングラスと日傘なしには外を歩けない。過酷な環境。

心の砂地#の最新回のタイトルは「モテモテ人生について」。このまま同じ題のポッドキャストが増えていったら愉快だ。奥さんから連絡が入る。ここすな聞いた後に自分たち聞くとすごいたどたどしくて不安になるね。そうだね、あと、考えながら話しているから、考えていることがうまく言語化されているという確信もなく、あなたの顔を見ても話が伝わっている感じが全然しないから、伝わってる? ここまではわかる? って僕が連発しがちなの、感じ悪いね。あなたを侮ってるようにも聞こえるから。じっさいは、暗中模索の不安の表れなのだけれど。思ってもみないところに行くために喋っているから、クリアに整理整頓された話し方はできない。それでも、もっとやりようはあるだろうとも思う。というか、話し出す前に整理しておけるところまでは整理しておいてもいいのだとは思う。けれども、たぶんそうすると、奥さんとの前提があまりに違って、これを二人で話すのはなしかな、と判断してしまうだろう。僕が話そうと思っていたことはポイエティークRADIOではほとんど完遂できない。自明の前提とした部分でほぼ必ず奥さんから横槍が入り、その時点で別の話になってしまうからだ。だから毎回試みられているのは、もともと話したいと思っていた本筋に必死で戻ろうというあがきで、大半はどうにもならないのだが、それでいいと決めている。同じ目的地に向かって話を進めるのではなく、お互いの見ているもののばらつきに足を引っ張られ、戸惑い、なんとか違いの実相をなんとなく把握するというので終始するから、どこにもいけない。たぶん、本来であれば台本や準備をするための手前のやりとりだけをずっとやっているのだと思う。これは、ポッドキャストを作品未満のものとして愛好しているという僕の癖に多くを負っているのだが、それでいい。新しい何かへの期待というものをもともと持っておらず、再発明しかありえないというふうに思っている。だから、へたくそな悪戦苦闘そのものが面白いのであって、その末に再発明される車輪にはそこまで興味がないというか、いや、あんなにやってたのにできたのは車輪だったんだ!ということにはけらけら笑って喜ぶけれど、別に車輪でなくたってよかった。ああでもないこうでもないと試行錯誤していることそれ自体が楽しい。しかし、他人とやるのであれば、作りたいのが車輪なのかケーキなのか、そのくらいはちゃんと擦り合わせてから始めたほうがいいのではないか。いや、まあ、何が作りたいかなんて、喋り出すまでも、喋っている最中も、わかっていないのだが。しかし、モテモテ人生とは何だ。それは少なくとも、モテ人生ではない。モテモテと重ねるからには、モテが過剰であるわけだ。需要と供給のアンバランス。そこに受苦がある。モテたいというのはまだ主体的な意志がある。モテモテはすでに個人のコントロールの外にある。モテモテは主体性の喪失の契機である。その荒波の中でなお、主体をフィクショナルに打ち立てようとする姿にぐっとくる。おそらく、僕にとってモテたいはどうでもよく、モテモテになってしまったあとに興味がある。モテは技術の話でできるが、モテモテは社会の話だからだ。自己責任で経営できない部分をこそ話したい。モテ経営は黙って実行すればいい。

モテへの意志と技術の洗練とは、自分の体力気力を駆使して承認を獲得するための経営である。承認の追求とは、たぶんそれ自体に価値があるのではなく、本来アンコントローラブルな領域に、それでもなお影響を及ぼしたいと打って出ることである。実際と理想とのギャップを最小化するための意志と工夫。そういうのはとても大事。それで、「正当に評価されていない」という感覚は、過小であれ過大であれ起きるものだけれど、若いころは過小であるという思いのほうが強く、いかに気がついてもらうかに心砕くのだが、長く続けているとだんだんと過大になっていくことが増え、するとどうにかバレないように用心するようになる。僕は今、だんだんと後者のほうに傾いてきている。だからこそ、問題は、モテではなく、モテモテなのだ。認められてしまったその後に、いかに誠実さを保ち続けられるかなのだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。