2025.07.21

暑すぎ。きのうハンズで撥水機能に惹かれて買った傘は、晴雨兼用ということで油断したが、裏地まで白くて、照り返しがつらかった。いや、照り返しはサングラスがあるのでまだいいのだが、光を透過するからふつうに暑い。こりゃ雨の日だけだな。駅に着くころにはびしょびしょ。

かなりゆっくり読み進めている『社交する人間』をひらくと、まあそのような予感があったから寝かせていたところもあるのだけれど、じつにタイムリーな内容だった。祭りとは、〈数年に一度、政治秩序の公然たる紊乱を許して、国民感情のカタルシスをめざす医療行為の一面を持つ〉ものだが、その亜種である無記名選挙は、むしろ感情の機微を漂白してしまうことでむしろ個人の感情を白か黒かの両極に置くように自己規制するように機能してしまう。個人へと主権をひらく民主主義には、明快で扇動的な全体主義への道を整備してしまうという逆説があるのだと説く以下の箇所を読んで、別に近年になっていきなり問題が噴出したというよりも、近代国民国家ってもうずっとこうなんだよなあ、とげんなりする。

Twitterだった場所でのコメカさんの一連の投稿がとてもよかった。いちいち引くのは煩雑なので、自分なりに要約しておく。人間は生き物なので、生活しているとネチャネチャが溜まる。「書くこと」は、このネチャネチャの掃除ではなく、むしろ書き手の自意識としてこれを腐らせ、肥大化させる傾向が強い。「書くこと」で腐ってしまったネチャネチャ=肥大化した自意識は、「指導する側」として自らを錯覚して、他罰的になりがち。でも、生活の上でも「書くこと」においても、ネチャネチャを面倒がらずネチャネチャのまま面白がるということは、不可能ではない。たとえば、へんに誤魔化さずにネチャネチャをネチャネチャのまま書こうとすることを積み重ねていくうちに、自分のネチャネチャを直視して許容できるようになり、すると他人のネチャネチャにもすこしずつ優しくなれるかもしれない。「書くこと」はネチャネチャをないことのように錯覚させてくれるけれど、そうやってネチャネチャを否認しようとするとむしろネチャネチャを腐らせる。自分はネチャネチャしてるんだと受け容れ、生身の個体同士の傷つき傷つけ合うコミュニケーションをネチャネチャやっていこう。そういう話として読んだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。