暑すぎ。きのうハンズで撥水機能に惹かれて買った傘は、晴雨兼用ということで油断したが、裏地まで白くて、照り返しがつらかった。いや、照り返しはサングラスがあるのでまだいいのだが、光を透過するからふつうに暑い。こりゃ雨の日だけだな。駅に着くころにはびしょびしょ。
けだし集団としての人間はつねに賢明な存在ではないから、社会の感情的な統合がときに暴発に近づくこともやむをえない。また集団の目的志向の本能が暴走して、しばしば効率至上の鉄の組織を生むことも避けがたい。だが近代国民国家の不幸はこのあい反する危険の扱いを誤り、両者を相殺して緩和するどころか、むしろ重ねあわせて病弊を倍増したことだったといえるかもしれない。
山崎正和『社交する人間』(中公文庫) p.242
かなりゆっくり読み進めている『社交する人間』をひらくと、まあそのような予感があったから寝かせていたところもあるのだけれど、じつにタイムリーな内容だった。祭りとは、〈数年に一度、政治秩序の公然たる紊乱を許して、国民感情のカタルシスをめざす医療行為の一面を持つ〉ものだが、その亜種である無記名選挙は、むしろ感情の機微を漂白してしまうことでむしろ個人の感情を白か黒かの両極に置くように自己規制するように機能してしまう。個人へと主権をひらく民主主義には、明快で扇動的な全体主義への道を整備してしまうという逆説があるのだと説く以下の箇所を読んで、別に近年になっていきなり問題が噴出したというよりも、近代国民国家ってもうずっとこうなんだよなあ、とげんなりする。
社会の感情的な統合という観点から見たとき、近代国民国家が生みだした問題はしかしこれだけではない。多くの近代国家は義務とひきかえに国民に権利を与え、メンバーシッブの印しとして政治への参加を許したが、問題はその方法として広く採用された国民投票という制度のなかにあった。忘れてはならないのは、近代国家の選挙はつねに半ばは一種の祭りであり、国民の理性よりは感情により多く訴える儀式だということだろう。もちろん政策はさまざまな理念として国民に発されるが、その明晰さは祭りにおける宗教的理念、経文に書かれた教義ほどにも十分ではない。人びとは論理よりも象徴を通じて、標語やポスターやプラカード、運動員の制服や支持者のワッペン、候補者の容貌や演説の雄弁を通じて、漠然とした正義の感情を刺激される。国民にとって選挙期間は周期的に訪れる「ハレ」の日々であり、日常は忘れている国家の道義性、「選ばれた民」の使命観を思いだして、演出された関争心に駆られる時間なのである。
選挙は法と制度によって組織された理性的な国家が、数年に一度、政治秩序の公然たる紊乱を許して、国民感情のカタルシスをめざす医療行為の一面を持つ。だがそれはふたたび重要な一点で祭りとは異なるのであって、そのずれのために国民の感情に避けがたく逆説的な効果を及ぼすことになる。なぜなら前章の冒頭でも触れたように、一人一票の無記名投票は必然的に個人の判断を機械化し、人間の感情に白か黒かの単純化を要求する方法だからである。どんな祭りの参加者とも違って、民主的な投票者は感情の自然な強弱とは関係なく、自己を顔も名前もない一票として表現するほかはない。また感情には高揚の過程があり、むしろその起伏の過程が感情の内容であるのに、一票の投票には感情の決着点しか表しようがない。しかも祭りの感情表現には身体的なアルスがあり、それがまた感情の微妙な豊かさを生むのにたいして、投票という行動にアルスの生まれる余地はない。ここでは白い紙に記号を書くか、文字どおり投票機械のレバーを引くしか術はないからである。
極端にいえば、これは人間感情にたいする組織的な愚弄であり、侮辱的な感情教育の方法だといえるかもしれない。近代の国民は政治的な感情を抱くことを制度的に奨励され、それを抱いたとたんに自然な感情ではないものにするように訓練される。長らくこの愚弄と侮辱によって感情教育を受けた国民は、やがて無意識にみずからの感情を自己規制し、最初から白か黒かの感情しか抱かなくなるのは当然だろう。少なくとも政治指導者の政策提案に単純さを期待し、それが白か黒かの二者択一であることを好むようになるのはふしぎではない。とかく選挙では、社会の明快な敵を指名し、正義の闘争を扇動する指導者が喜ばれるのである。そしてまさにここに近代国家の内発的な危険が潜むのであって、民主主義そのものの根から全体主義が生まれる逆説的な土壌が培われることになる。民主主義の総本山アメリカが跡を絶たないポピュリズムの国であり、さらにいえばあのナチスがまさに選挙によって政権を奪ったことも、あながち偶然ではなかったといえるだろう。
同書 p.242-244
Twitterだった場所でのコメカさんの一連の投稿がとてもよかった。いちいち引くのは煩雑なので、自分なりに要約しておく。人間は生き物なので、生活しているとネチャネチャが溜まる。「書くこと」は、このネチャネチャの掃除ではなく、むしろ書き手の自意識としてこれを腐らせ、肥大化させる傾向が強い。「書くこと」で腐ってしまったネチャネチャ=肥大化した自意識は、「指導する側」として自らを錯覚して、他罰的になりがち。でも、生活の上でも「書くこと」においても、ネチャネチャを面倒がらずネチャネチャのまま面白がるということは、不可能ではない。たとえば、へんに誤魔化さずにネチャネチャをネチャネチャのまま書こうとすることを積み重ねていくうちに、自分のネチャネチャを直視して許容できるようになり、すると他人のネチャネチャにもすこしずつ優しくなれるかもしれない。「書くこと」はネチャネチャをないことのように錯覚させてくれるけれど、そうやってネチャネチャを否認しようとするとむしろネチャネチャを腐らせる。自分はネチャネチャしてるんだと受け容れ、生身の個体同士の傷つき傷つけ合うコミュニケーションをネチャネチャやっていこう。そういう話として読んだ。
