東浩紀が参院選について各党支持者十数名を交えて語らう、九時間にわたる配信を見た。ほとんどの参加者の体が大きくて、本人たちもラグビー部みたいだと笑っていたけれど、じっさい、体型やルッキズムが無視できない影響を結果に与えるのが選挙でもあるのだよな、というのもよくわかる。かなり繊細なバランスで気遣いが保たれるいい対話の会だったと思うが、なにより印象に残ったのは、ここに集う「男子たち」の弱毒化を、かつて「男子」だった、成熟を受け入れた「大人」として一手に引き受けようとする東の姿だった。それは特に、積極的に老害を引き受け、慈しむように若者にマウントをしかける笑顔に現れているように見えた。
古今東西よく言われる若さの特権とは、年長者の経験に基づいた実感を軽蔑して、観念的な理想やロジックのほうに信を置くことである。これはだいたいずっとそうなんだとは思うけれど、こと将来への明るい展望が描けないような社会において、年長者の経験は、「いつか行く道」ですらなく、あらかじめ奪われた「特権」として感覚されるわけで、そうなると、軽蔑の対象どころか憎悪の向き先みたいになっていくよなあ、というのは、自身の若い頃を思い出してもそう思う。東のような「大人」は、それがどれほど無理筋のように見え、ある意味では絶望であろうとも、「子供」たちの未来を自分たちと大して変わらないものとして楽観的に示すほかない。そのような覚悟を勝手に感じ取り、えらいなあ、と思うのだった。「子供」の目からすれば、欺瞞だ、特権的だ、生存者バイアスだ、と言い募りたくもなるが、いいかげん、僕くらいの年齢の人間は、たとえ人口分布からすれば若輩者であったとしても、「大人」を、「父」を弱弱しくとも担わなくちゃいけない。そうでなくてはいつまで経っても「母」なるものに凭れ掛かって、「少年」のような夢想と無謀を繰り返しては泥んこで家に帰るという不毛な袋小路から抜け出せない。抜け出したくないのだろうとも思うが。
奥さんがインスタグラムで見つけたボタンでヒトと会話する猫の動画を見せてくれて、ルドンは賢いからこのくらいはできそうだね、と話す。きょうはやたらとおしゃべりで、わざわざ一階と二階を往復してそれぞれのヒトにンナー、ンナー、と話しかけてくる。うんちのときは元気よくにゃー!と呼ぶ。遊びたいのかもしれないからたくさん遊ぶ。歯磨きをすると歯ブラシが真っ赤に血で染まるので、なるべくケアしてあげたいのだけれど、そんなだからなかなか磨かせてくれず、でも磨かなければ余計に痛くなる。毛布でくるんで拘束して、ぴえー、きゅー、と悲鳴を上げるのに心を痛めながら奥さんが磨く。僕はおろおろ歩き回る。まったく、なにも「大人」を引き受けられちゃいない。まずは、僕がルドンの歯を磨けるようになることだ。そこから始めるほかない。ほかないってことはないと思うが。
