一階でルンバを稼働させるとルドンはかなり嫌そうで、一緒に二階に逃げてあげたら、久しぶりに膝の上にのってきてひたすら撫でくりを要求し、そのまま引っ付いて寝始めた。べたべたに甘えてくるじゃん。家に来てしばらくはずっとこの調子だったから、不安だとヒトにくっつきたくなるのだろうか。そうだとしたら、さいきん甘ったれが目立たなくなって猫っぽくなってきているはきちんとこの家を自分の安心できる縄張り認定できてきたのかもしれない。しかし、テリトリー意識の最小単位がヒトの膝の上というのは、なんというか、すごく……すごくかわいいね。猫の温もりを膝に感じながら、すごく満たされた気持ちになる。猫、きみが大好き、という気持ちでいっぱいになり今日一日きげんがよかった。
二時間くらいかけて小竹向原に向かう。もう五年以上前の引っ越し先候補で、しかし駅を降りてすぐここは違う、と思う程度に何もない場所という印象だった。じっさい、ガストとゴルフの練習場しかなかった。
ムニ『始まりの終わり』みる。はじめてのムニ。アトリエ春風舎じたい初めてだ。すべて周到にトーンとマナーを揃えられた美術、衣装、俳優の身振りと発話とが、戯曲の伝達可能性を工業製品レベルにまで高めていて、「観た」というよりも「読んだ」という感じだった。その統一感はもちろん高度ではある。しかし、これだったらテキストをそのまま読めば、二時間半もかからなかったわけだし、という気分にはなる。観念としてのテキストと、具体としての俳優とのあいだに起こる不和。そこにこそ演劇のおいしいところが宿る気がしているのだけれど、それはつまり家庭料理のムラっ気の面白さであり、均等さを目指すセントラルキッチンのクオリティとは異質のものだ。五人で単一の一人称を引き受けたうえで、六人の三人称的語りを行う、という構造が必然的にはらむ多様であることの緊張や摩擦を、舞台上のすべてが、「なんか、似てるね」という雰囲気を帯びてしまうことで、無効化されてしまうようでもあり、そこに違和感があった。
劇場を出て、きのうの社交場で予約を合わせてくれたシャーク鮫さんと一緒に、子供のころの探検を思い出す細い細い路地裏を縫うように歩いて江古田まで辿り着き、コーヒーを飲みながらおしゃべり。社交も演劇も、ひとりではできない。自分の設計や意思が貫徹できないどころか、コントロール不能になったところでこそ面白くなる。そこが好き。でも、だからといって「みんな好きにやっちゃって〜」ではどうにもならない。すっごいゆるくて、だらしなく見えて、実は微妙な配慮や介入がある。その微妙さの練習を重ねたい。
帰りの電車で教えてもらった新日本プロレスのアルティメット・ロワイヤルの映像を見る。なにひとつうまくいっていないが、僕が小劇場や小説で遭遇したいわけわからん蛮勇がそこにはあった。
