「ていねいな暮らし」について考えている。かつて栄えた「ていねいな暮らし」って、お金や体力をじゃんじゃん使って非日常的だったり退廃的だったりするあれこれをパワフルに享楽できる強者に対して、工夫次第でいくらでも美的にできる生活の実相のほうをこそ至上の価値とすることで、むしろ優れているのは日常を大事にできるわれわれのほうなのだ、と価値転倒を図るルサンチマンだったと思っている。つまり、黎明期の「ていねいな暮らし」とは、日常生活を美学で貫くことで得られる道徳性や穏やかさを、そうでない——かれらの想定ではかれらよりも社会的なり体力的に恵まれている——人たちよりも優位であることの根拠とする態度であった。
それがいつからか、というか明確に「ていねいな暮らし」がマーケティング用語になった時点で、日常の質を追求するほうが体力やお金がなければできない贅沢じゃないか、むしろいつまでも片付かない日常を束の間忘れるために刹那的な享楽に耽るほかない人たちのほうが、あきらかに階級的弱者である、といった形でルサンチマンの主体が逆転していったような気がする。雑な印象論に過ぎないけれど、これは『ヒップホップ・レザレクション』において整理されている以下の経緯とも重なるところがある。公民権運動における黒人教会は、被差別者である自分たちのほうが「貧しき者」として天国により近い存在であるのであると自己規定し、道徳性の高さを根拠に自身の社会的地位の向上を求めていった。しかし、公民権運動以後、黒人間での所得の格差が広がっていく。貧困層の黒人は社会的な待遇だけでなく、中間層化した黒人らが中枢を占める教会からも、非道徳な振る舞いを非難され、疎外されていく。
まったく切迫の度合いの異なる話だけれど、「ていねいな暮らし」が有していた反骨や抵抗の精神が、格差の問題へと変容してしまった経緯とは、一面ではこういうものではなかったか。
僕自身、貧乏でも気高く、お金はそこまでなくともごきげんな暮らし、というのが長らく指針となるものだったし、そのように暮らしていきたかった。けれども元来の自身のがさつさと、貧乏ゆえの余裕のなさで、一人暮らしやシェアハウスの時期は結局ていねいには暮らせなかった。同棲や結婚してお金の余裕が出てきてからも、奥さんの片づけ無精が幸か不幸か言い訳になって、ていねいに暮らさないできた。そういう意味では僕自身、元来ルサンチマンであったはずの「ていねいな暮らし」に対して反転されたルサンチマンを持っていた側である。ねえ今更だけど、ルサンチマンって持つもの? そもそも名詞? 実はよく知らんな。
ともかく、僕はいまだに中間層の美学というか、お金だけが重要なわけじゃないし、ガツガツしすぎず穏やかに気遣いを忘れず暮らしていこうよ、みたいな態度はよいものだと考える。けれども、社会全体の沈下によって、中間層マインド自体がずいぶんと特権視されてきて、そこにつらさを感じている。もはや誰もが即物的で、ファストなドーパミンだけを追い求めており、日々をすこしでもセンスよく、感性豊かに、美学をもってやっていくという試みはマイナーなものへと追いやられていく。そういう風潮を感じて嫌だなあと思っている。
出勤前に書店に駆け込み、『限界OL霧切ギリ子』の単行本を購入。裏表紙にはこうある。「人生は苦難の連続だが生活は…娯楽だ!」
この文言にかなり強く打たれた。ギリ子さんの食生活はまったく「ていねい」ではないが、固有の美学と知性がある。それは「生活は…娯楽だ!」という態度だったのかもしれない。貧乏くさいものはあまり好きではないのだけれど、苦難の中に娯楽を見出す読み替えの実践はとても好きだ。それはつまり、ルサンチマンとは別の形で、つまり他人との比較ではなく、ただひたすらに自己目的的に日々を楽しく暮らしていくことだからだ。
