『東京人』に載っている福尾匠「ライフとログ 日記の二面性についての考察」を読む。短文なこともあってシンプルな理路で、その整理の手つきの鮮やかさを楽しめるいい文だった。とくに〈ライフをログすること〉と〈ログによってライフを導くこと〉という二項の立て方と、それを二者択一にはしない書きぶりが秀逸で、触発される。結論部では、ログがもつ規範性を、いかに己のライフに忠実であれるかという主体性の獲得の契機としてポジティブに読み替えているのだけれど、このバランスは微妙なもので、〈現に起こったことへの忠実性〉への個人の意思は、つねに〈ログによってライフを導くこと〉へと回収されかねないものでもある。書けばいいというのでも、書かなければいいというのでもない、忠実さを主体としてどうバランスし引き受けるかは、おのおのがやっていくしかない領分だ。というか、ここでこれこそが忠実性なのだと範を示してしまったら、それは「国民」や「軍人」を教導するために「書かされる」ログと態度を同じにしてしまう。このあたり巧妙にほのめかすに留める書き方それ自体が、文学(ライフログ)と情報(ログ)の前後関係の決定不可能性を隠蔽することなく、絶えず切り替わる両者をともにライフへと役立てようとする試みになっている。
じっさい僕は日記をよりよい自分になるための日課としてこなしている。これはライフをログしつつ、そうして制作されるログによってライフを律する態度だ。今年の五月に『声の文化と文字の文化』を読んでいる日にこう書いている。
素朴な話だが、僕が公開で日記を書く理由の大きなものに、善き人間であるための規範として据えておくため、というのがある。なんというか、なるべくごきげんな日記を書き続けている程度には、自他を思い遣って気前よく振る舞えるようでいたいし、そのための規律としてこの日記の集積が機能すればよいと思っている。日記がそっけないときは、このような思惑が自律の愉悦ではなく、抑圧の重苦しさとして感じられているときだ。というか、最近はだいたいそうだ。日記の堆積が〈良心の吟味への圧力となって現れ〉ている。しんどいが、易きに流れてクソ野郎に堕すよりはマシだ。できることなら禁欲ではなく、享楽のほうにこの日記を傾けたいとは思うのだけれど。自律じたいは、自分でやれているいい気分な手応えを得られる方法でもある。
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ひとまず自分にとって読み書くこととは、日々のライフを暮らす「私」を制作し鍛え上げるための習慣である。依頼原稿がつづくとすこし調子を崩すのは、書く動機にはじめから社会性が組み込まれるからだ。どちらにせよ、書くとは誰かへの伝達なのであって、書かれたものが社会性を帯びないことなどないのだけれど、自発的に好きに書くのと、依頼されて書くのとはまったく違う。すくなくとも僕にとっては、前者は書いてしまった後に「私」が成立していることに気がつくものであるのに対し、後者はまずこれから書く「私」を定位したうえで書くものであるからだ。まず線を引いてから自分でその線に驚くのではなく、綿密に計画された下書きの通りに線をなぞってばかりいては元気がなくなって当然である。日記や自主制作と、依頼原稿とは、〈ライフをログすること〉と〈ログによってライフを導くこと〉という二項と相似をなすようだった。
よき「私」とはどんなものか。それがわからなくなっているうちに、頼まれたものを書いたり読んだりしていると、どんどんログに教導される「私」じみてくる。そうしたことへの嫌気と倦怠が、この一年ほどずっと自分に覆いかぶさっている感がある。こうして書くことができているということは、だいぶ持ち直してきたということだろう。読み書きはやはり自分本位に徹したほうがいい。そのうえで、鍛え上げた「私」を見せびらかし、試してみるために社交に出かけていくのだ。社交は人を成長させないが、成長したかどうかの実験にはなる。実験の結果を反省して、また「私」づくりと「私」鍛えに励むのだ。何度でも。
