傘をさしても仕方がない程度の鬱陶しい小雨で、汚すのもいやだったので眼鏡をはずして駅まで歩いた。フォーカスの設定を失敗したカメラのように景色が滲み、薄明るい曇り空の下を向こうから歩いてくる人はあたかも強烈な光源を背後から受けて針金細工のようになっているシルエットに似る。家々の庭や公園の植生は個別にぱきっと分かれた緑の機微が溶解し塊として知覚される。信号機の色は判別できるから問題なく駅まで辿り着いて、慣れた移動であればいっそ見え過ぎないように調整して歩くのも面白い。なんでもかんでもクリアであればいいというものでもない。ぼんやりさせる方向でやっていく。ろくにものが見えない、覚えていられない、そもそも知らないということを、マイナスにだけ捉えるのではなく、その効能を考えるということをさいきんは考えていて、たぶんこれは加齢による衰えや、それ以上に研ぎ澄まされた自分の無能さへの理解によるものだろう。できることよりもできないことに関心を持つというと暗そうだが、むしろこれだけのことができていなくても生き延びてきたのだという明るい驚きが楽しい。できないことをできるようにするのも、できないことを悩むのと同じ程度にできないことに拘泥するようなもので、向上心は必ずしもひとをよくしていかない。やりくりへの意志のほうがまだいいかもしれない。そもそも不足を嘆いて未来へと動員されていくことに無防備であるよりは、いますでに自足しているものや、不足していても不便ではないことをこそしっかり点検するべきな気がする。いま不安を煽ってくるその不足、じぶんではない誰かのニーズのためにでっちあげられたものではありませんか? できなくて、べつにいいんじゃないでしょうか。自信をつけるのではなく、自信のなさに居直るというか、無い袖を振らない。それでよかったりする。セルフ・ボースティングのよさもわかりつつ、最近はそういうの疲れたな、という気分が優勢だ。電車の中も裸眼でいってみようかと思ったのだけれど、それだと本が読めなかったので眼鏡をかけた。
