蛙坂須美『こどもの頃のこわい話 きみのわるい話』を読み終える。きみのわるい話を、安易に社会の側から解釈して外在化してはいけない。わるいのはきみだ、というのを自己責任論に帰結しない形で行うことで、すぐに属性だの階級だの年収だの因縁だのに回収されがちな個人の固有性を取り戻す。
体験者の語りを「実話」として受け取り、語り直すとき、その「実話」性は、ただ唯一その体験者の固有性にのみ賭けられている。たしかにそのように世界を知覚した人がいる、その手応えの強度に引っ張られて、もしかしたら世界はそのようでもありえるかもしれない、と不安になる。体験者の実存のリアリティが、読み手にとって圧倒的な他者として立ち現れ、語られる出来事そのもののリアリティと取り違えられる。これまでとはまったく異なる事態を前に戸惑いつつ、自前の世界観のほうを訂正していくほかない。実話怪談の読書経験は、こどもの頃の体感のありようと似ている。
大人の視点を極力排してこどもに徹することで、ありふれた駄作にありがちな、体験を社会化するような価値判断をくだすような愚行を避けている。そのうえで本作がすごいのは、それぞれの作が物語としてとても面白いということだ。面白い物語への享楽を通じて、読み手はこどもの感覚へと回帰する。おもしれー、と読み耽る状態は、こどもの奇妙に素朴な説得されやすさと重なるようでもある。何が起きているかはわからないが、でもなんかそうだよね、と腑に落としてしまうような状態へと調整されていく。読むとこどもに還される。恐ろしい本だ。この本が「人形地獄」という合コンに行きまくる大人の話で終わるのは、読者をきちんと大人の世界に帰してくれるような手心のふりをして、環世界の不安定さは大人だって一緒じゃないですか、と突き落としてくるのだからやはり邪悪である。
