日記を書き始めてから、自分で書いたりつくったりしたものではない経路で、つまり書店や著者ではないひとたちと、自作した本を介さずに会い、遊ぶということ、まあつまりはそれが僕にとっての社交なのだが、そうした機会が頻発するのは今年の夏以降に現れた初めての事態であり、何をつくったか、ではなく、その場その場でいいやつかどうかで広がったり、続いていったりする交遊の場を日記にどう書いておくか、というのがまだ定まらないでいる。基本的に、僕が日記を書いていると知っている、どこかのタイミングで『プルーストを読む生活』を取り扱ってくれたり、その縁でイベントに呼んで切れたようなひとたちのことは名を挙げて書くようにしている。そうでないひとはぼんやりとさせてきたし、昨日もそうしたのだけれど、今の自分の気分として、なにかをつくることよりも、というか、つくりかたを書き換えるために積極的にその外部でいいやつをやろうという練習をしているのであり、それを日記において再演するさい、ぼんやりさせたままでは練習にならないのではないかと思わなくもない。かといって飲みの場で起きたことをつぶさに書き起こすのも無粋である。そもそも、書かれたことよりも書かれないことに興味が移っているからこそ社交しているのだし。外からは容易にのぞき込めない自分たちだけの暗がりをどう持っておくかという意味では、このほとんど誰も読んでいないであろう日記であっても、アドレスが公開された場所にある以上やはり書かれないほうがいい。それがいかに大したことでなくとも、大したことでないからこそそうなのだ。大したことのない暗がりを、あえて白昼堂々出してみるというのは、文字ではなく声でやったほうがいい。それは日記ではなくポッドキャストの領分だし、それは要は、後者はひとりではないというのがかなり重要だろう。
ドライヤーや、料理、歯磨きなど、どうしたって時間のかかることを意識的にゆったりとした心持ちで、丁寧に行うことにした。所要時間はほとんど変わらないが、なんとなくちゃんとやれている手応えを得られる。日記も、理想は日中の折々にツイートのように書き継いでいきたいのだけれど、夜や翌日に持ち越されてしまった場合も焦らずちゃんと時間をかけるようにした。けっきょく時間はかかるのだから。そこに抗っても仕方がない。昼から飲む時間は感覚として容易に伸縮する。いつまでもだらだら持続していくようでもあり、あっという間に終わるようでもある。それはつまり一種のフロー状態で、その時間を充実させれば時間はどこまででも濃く深く長い体感となっていき、振り返れば儚い一瞬のように遠ざかる。覚醒しつつ遊離せずその時を味わう。相対化しつつ絶対的に享楽する。そのようなことを大事にしたい。そのために読み書いていたのだけれど、いつしか読み書くことに社会性が入り込んできて煩わしく、その対抗策として社交している。読み書きは時間感覚を遅延させ、一秒一秒を細密に眺めるための技法であるが、眺められたそれはべつに書き表されるためにあるのではなく、書き表そうというのはよく味わうための方便なのだから、書き表そうというのを至上の目的に据えてしまったとたん、景色が味気ないものになるのだったら書かないほうがましだった。おそらく、帰り道も寄り道しながら泰然と歩く方がいいだろう。はやく帰りたいに決まっているのだが、早足になってもたかがしれている。今日は普通に電車の乗り換えが渋くて帰りが遅い。いらいらしてきた。なんでこんなに時間かかんだよ。
