今週のルドンは僕にべったり。今朝も目が覚めたらぬいぐるみのように腕の中にすっぽりはまっていて、すこしだけ抱き寄せて後頭部のにおいを嗅ぐ。
諸々のイベントの告知のために頑張るかという気分がやってきて、Twitter跡地をまたひらくといぬのせなか座の山本さんの投稿が目に留まり、だよね、と思い、本を買った。長くなるし、まだ手元にない本を引くのは気が咎めるけれど、日記に引くのとリツイートと何が違うのかと思い、ひらきなおって引いちゃう。
私は日々、生きている。つらいこともあれば嬉しいこともあるし、死にそうになることもあればこのまま永遠に楽しいまま生きながらえそうに思えることもある。そのすべてが社会的になんか意味付けられない、お金にもフォロワー数にもならない、ささやかだけど、同時に私にとっては避けがたく、仕事で考えなければならない大きなあれこれを前にしたときにも、友人や家族とのんびり、あるいは激烈に喜んだり言い争ったりしながらすごすときにも、いつだってついてまわる、この私の生。その進行形の歴史。 これをささやかなまま、認めたい。私が私として大事に表現し、表現したから別のひとと共有でき、でも別にあそこが良かった悪かったと言ってもらいたいわけでもそんなになくて(褒められたら嬉しいしお金がもらえるなら楽かもだけど)、ただ誰かに届くかもと思いながら私は過ぎゆく一日を見つめ、そこに私なりの大事さを感じられる評価軸をつくりたい。これからそれを支えにしばらく生きていけるような、しなやかで好みな軸を。
例えばこんな感覚を、イレギュラーでひそやかな何かとしてではなく、むしろ「文学」の主流の考え方のひとつとして表明して恥ずかしくない世界に、いまはなった。
https://x.com/hiroki_yamamoto/status/1993824035319501043?s=20 (引用者注:山本浩貴『フィクションと日記帳――私らは何を書き、読み、引き継いでいるのか?』からの抜粋)
言語表現というジャンルにおいて人の表現を評価しキュレーションする権威として機能していた「文壇」や「文芸誌」や「出版」なるものは、どれもここ十年ほどで急激に衰退し、それらよりも、個人の現実的で具体的でささやかな生に寄与するかどうかの側からあらゆる文章も、文学史も、私的に評価されるようになった。 これは、私の生きる現実を、そこから切り離され自閉した(しかも既存の既得権益により「芸術的/文学的価値のあるものとして」評価される)「フィクション」よりも尊重する傾向として、例えば二〇一八年ごろの「# MeToo運動」などを皮切りに急激に広まったフェミニズムの再評価や、ロシアによるウクライナへの、イスラエルによるガザへの侵攻に対する抵抗運動、あるいは(真逆に思えるだろうが)真っ当な理念を語り行なわれるデモをはじめとする運動に対して西村博之(ひろゆき)らが行なう冷笑や罵倒、環境活動家によるパフォーマンスへのバッシングのテンプレ化などといったものもそこに含まれるだろう、ここ五、六年ほどで見られるようになった政治的・文化的状況とも一定程度同期したものだと考えられる。 つまりは抽象化され自閉した理念・信仰を既存の価値基準のもと従順にありがたがるのではなく、この私(ら)が生きる世界に本気で役立つかどうか、即物的かつ具体的に意味があるかどうかで「表現」を測ること。 誰かが作ったフィクションではなく、生々しく避けがたいこの現実に有効なものこそを、私が、私の価値基準でもって(時にはその無力さも込みで)選ぶ。もちろんその選択もまた、誰かの設えたフィクションの上のものでしかないのかもしれないことはうっすら理解しつつ――しかも実際にそれはどうしようもなく避けがたいわけだが――それでもこの私が現実そのものだと思えることをひとつひとつ私において選ぶこと。その生々しさこそが大事なのだと堂々と言える世界に、いまはなった。
https://x.com/hiroki_yamamoto/status/1993855039782387970?s=20 (引用者注:山本浩貴『フィクションと日記帳――私らは何を書き、読み、引き継いでいるのか?』からの抜粋)
権威が衰退することで、価値判断のよすがが完全に個人の生活実感のみに切り詰められていくのがここ十年ほどだったとして、それは自前の価値基準をDIYするぞという意思の顕在化ともいえるのだけれど、意思はすぐさまニーズに読み替えられ、DIYの技術や素材は情報商材になる。
たとえば、小倉ヒラクからスピリチュアル、香山哲から参政党、というような、ほんらい真っ当さと慎重さを兼ね備えた書き手の制作を、読者の側の生活実感で恣意的に援用していくことで行きついちゃう先があるというのを目撃し続けた十年という感がある。これは小倉や香山から直結するわけでは決してない。というかそういう回路をかなり慎重に回避していると思う。それでも、かれらのそれそのものはまっとうであったはずの作品に触発されることで発見された読者の欲望(自前の価値基準をDIYするぞ)が、その次の本、その次の勉強、と展開していくうちに、いつしか別のより露骨な動員(スピリチュアルや参政党)へと引き寄せられてしまうことがすごくよくある。がっかりするよね。「この私にぴったりで安心な商品を選ぶようにしてライフスタイルを選択していった先にあったのは、やっぱり国産(ナショナル)で、クール(冷笑)で、パーソナル(排外)なものでした」。けったくそわるい。
しかし結局こうしてツイッターを見てなんか書くと多弁さが引き出されるので、なにかものを考えたい時にはずいぶん好適な場所では以前あるのだなと思うとかなりムカつく。ちゃんとこのどうでもいい饒舌を誘引するなにがしかを別の場所から手間暇かけて調達したいものだ。
