2025.11.29

中堅になってきて、仕事ができる人というのは「わからない」や「知らない」を素直に言える人だなと思う。全能とかではなく、むしろそうでないことを自覚してちゃんと人に教えを乞えることを優秀というんだろうな。

いや逆なのかもしれなくて、この歳になってくるとむしろ自信がないと「わからない」や「知らない」を素直に表明できないのかも。自分はわかったり、知ったりできる能力があるという自信はもちろん、自分の疑問や無知は無能力ゆえではないと思い込んでみせることが必要で、そのような自信は、成功体験があってこそ身につくものなのだとしたら、優秀だという自認がないと、質問する勇気が減っていってしまうのかもしれない。じっさい、若手のころはなんもわからないからこそ、知りませんって言えなかったな。というか知らないって言ったら怒られたな。あれは理不尽だった。かわいそうに。

素直に白状すれば僕は知ったかぶりだけでここまでやってきてしまった。知ったかぶってしまったあとから勉強してほんとうに知っていることになるという方法で誤魔化してきたが、体力気力の衰えと、処理すべき情報量の増加によってもうどうにもならなくなっている。そのくせ知ったかぶりを繰り出す反射神経はそのままだから、反射的に出そうになる知ってる風な応答を抑え込んでちゃんと「何それ」と言えるようにする訓練が必要。もうこれは習慣になってしまった身振りを矯正するという話でしかなくて、気の持ちようとかではない。気の持ちようだけで言ったらもうほとんどすべてが「何それ」だ。多くの運用が、あんがい何も知らないままに、いい加減に実行されていて、それでおおむね問題がないということもわかってきた。じつはみんなよくわかんないままでいる。それでも回ってしまうのだからすごい。

ゆえあって二〇〇〇年代について振り返っていて、これは小3から高3までの期間で、すごく酸っぱい気持ちになってる。胃液だろうか。この準備は、ある意味ちゃんと知りませんというための準備だ。僕は十代のころから大してものを知らないし、感度も高くない。そういう話ができたらいいと思う。

夜は下北沢に『季刊日記』の刊行イベントに。久木さんがいらして会えて嬉しい。二年ぶりとかだろうか。山本さんにはブログで取り上げてもらってありがとうございます、と言われ、このイベントの場で日記と呼ばれないことが可笑しかった。

イベントは始めから日記への編集としての介入可能性という重たい話に始まって、楽しい話がほとんどないくせに、ほどよく下世話で、ほどよく節度があってよかった。僕にとって日記が商業で流通するという事態の面白さは、日記は明らかに読み手よりも書き手の方が多数である文章表現である点にある。日記の実作者が必ずしも日記の読者とは限らず、むしろ公開しない日記の作者は公開された日記に関心を持たないことの方が多そうでもある。たとえば僕はあまり日記本を読まないし、他人の日記そのものへの関心はあまりないほうだと思う。日記というのはとるにたらない素朴なものでありうる一方で、表現のミニマムでもありうる。その振れ幅は、明らかに実作者の方が多いにも関わらず、出版される日記の読者層は、自分の制作もいつか流通に乗せたいというような実作者ではない、それこそただ読むのが好きという素朴な読者にこそ支えられている点なのではないか。このあたりは現場の実感を内沼さんや久木さんに質問してみたかったけれど、時間がなかった。

この、実作者以外の読者にこそ読まれていそうであること、つまり必ずしも実作者に支えられているわけではないにも関わらず、実作者の数は読者の総数よりも明らかに多いという日記の性質は、日記について論じるときにそれを実作者の側で語るのか読者の側で語るのか、あるいは流通として語るのか消費として語るのかが混乱しがちで、これまで僕はあえて混乱させたまま書いてきたけれど——だって誰しも混乱してるのだから——やはりちゃんとスタンスを分けて個別に論じるべきだよなあ、と改めて感じる会だった。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。