2025.12.01

山本浩貴さんがこの日記でトークについて書いていることに言及しつつ、「ブログと発話したの完全に無意識だったけど、たしかに自分はネットで公開される日記をブログと呼びたくなる感覚が一定以上強いかもしれない1」と書いていて、この感覚、面白いな。僕は日記とブログとの距離のほうが、日記とエッセイから小説までの幅を持った文章表現との距離よりもずっと遠く感じていることに気がついた。ブログの方が語源的には日誌なわけで近そうなものなのに。たぶん自分の感覚としては、ブログは「記事(事実のレポート)」であり、日々の制作とは別のもの、より流通や伝達を主な目的とした労働だと捉えているのだろう。ちなみに、この個人的な分類感覚に基づいていえば、批評みたいな散文については、僕は明らかに日記の側に位置づけていて、でも(主に非読者たちによって構成される)大多数からはブログの側としてイメージされがちなのかもなと考えている。事実と個人の感覚と、どちらを表現として重視するかという重心の違い?

事実こうであるというのよりも、こういうふうに見えている人がいる、ということのほうがずっと面白いという癖が自分にはあり、というか批評なんてものはものの見方の鋭さや突飛さや格好よさを誇示し、憧れるためのものだろう。僕が誰かの日記を読んでブログみたいだなと思うとき、それはわりあい悪口の雰囲気がある。つまり、見ているものも見方もどちらも使えそうなだけで、わぁいいなあ!というようなときめきに乏しい。

パンツがお尻の割れ目に食い込むのをきらって新調したのだが、これもまた食い込むのでショックを受けている。パンツが古びたのではなく、僕のお尻やお腹周りが大きくなっていて、快適なサイズが変わったのかもしれない。

きょうは2000年代を振り返る会の約束があり、あれこれ思い出そうとしていたら中学生の頃の日記が見つかった。シーサーブログで書いてたやつ。いろいろ恥ずかしくはあるが、あまりに変わっていなくてぞっとしない。

このころから脱線と連想ばかりしている。しかしいまだったらゴミ屋敷のことを〈一昔前に流行って、今も根強い人気を保つ〉なんて嫌な書き方はしないだろう。こういうところに幼稚さが出ている。次の日記も、〈オバチャン〉という表記に侮りが滲み出ていて最低。

書きぶりはダサいが、スタンスはまじでいまとほとんど変わらないようにも見える。こいつは俺か? そうそう、このころの一人称は俺で、かわいい。文体は露骨に太宰治と「今日のダーリン」にかぶれている。かわいい。そうか、たしかに、いまにまで続くような毎日書くという方法からして、「ほぼ日」の猿真似だった。

  1. https://x.com/hiroki_yamamoto/status/1995327420644159914?s=20 ↩︎
柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。