2025.12.02

知的能力は「大喜利」と「マウント」のいずれかだけではない。ただ、このふたつは勉強や訓練をしないでいてもうっかり上手く出力できるひとたちが一定数いるので、「地頭」とか言って不誠実にサボることを「効率がよい」みたいに正当化するのに都合がよいところがあり、そりゃ他を圧倒するほどにまで蔓延するよねえと思う。この風潮は二十年近く前からそうだったみたいだし、きのう引いた中学生の日記ですでに僕は勉強そのものの価値は否定しないことができていて偉かった。今日も読み返してみよう。

とりあえずこの時点でボブ・ディランを聴いていて、『ゴッドファーザー』を見ていたらしい。あとこの二重鉤括弧の感じからしてジョジョを読んでいるのだろう。とにかく鬱陶しい書きぶりだ。

他の日記も引きながら木曜のイベントまでは日記を節約しつつ日記への関心を持続できるかもしれないと考えていたけれど、ろくな文章がないのでもうこれ以上は引きません。きのうの日記を読んで奥さんは「あなたもちゃんと中二病だったんだね」と言った。ね、かわいいね、と返せるくらいには他人のようだけれど、このころの自分のような人を見ると過剰に否認する気持ちがもちあがるところもある。これは、いまだにそういう気があるからなのかもしれない。考えていることやその傾向に代わり映えはなくとも、書き方や勉強の質量によってもっとずっとましなものになる。その手応えは、この十五歳の少年があと十五年くらい生きてようやく得られるものだろう。だから、否認するのはその書き方だけであって、考えていることそのものは否認しようがない。考えていることはよくわかるけど、だからこそその書き方じゃいけないよ、というのを、当時のかれに伝えることはできるだろうか。結構できるような気はする。日記を読む限り、自分への関心でぱんぱんでありつつも、わりあい素直でオープンマインドだったようだから。

本を読むときも、人と話すときも、おおむね僕の態度はあなたの色に染められたいというものだと思う。ただし、記憶力が壊滅的なのと、そこまで義理堅くもないので、水洗いでほとんどの色は落ちる。というか、洗えば落ちるしなーと思っているからこそ気軽にこういう態度がとれる。心底染め上げたいと思っても、ほんと定着しないので困る。まじでなんにも覚えちゃいられない。中三のころからそうだったらしい。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。