知的能力は「大喜利」と「マウント」のいずれかだけではない。ただ、このふたつは勉強や訓練をしないでいてもうっかり上手く出力できるひとたちが一定数いるので、「地頭」とか言って不誠実にサボることを「効率がよい」みたいに正当化するのに都合がよいところがあり、そりゃ他を圧倒するほどにまで蔓延するよねえと思う。この風潮は二十年近く前からそうだったみたいだし、きのう引いた中学生の日記ですでに僕は勉強そのものの価値は否定しないことができていて偉かった。今日も読み返してみよう。
2007.02.18(原題:答えについては風だって忘れてる)
今、手にとって三分の二程読んだ後、興味が他に行ってほったらかしになっている本が山ほど、在る。
そんな本を久々に「どれ」と手にとって、栞の挟まれている箇所から目を通し始めると、読んだ覚えがない。
いや、この本は知っているし、この雰囲気も初めてではない。しかし、まず誰がどんな人なのか解らない。
こいつが主人公だっけか?
この、犯人らしすぎて逆に怪しくない男は誰だ。え、あの人は死んでしまっているの?いや、あの人って何者だかも曖昧だ。というよりもまず、何故自分はこんなにクライマックスに差し掛かろうという一番面白そうな場面で、読むのをやめてしまったのだろう。
他の本では、主人公と思われる男が地下で死にかけていた。
今朝、夢を見た。とても面白かったのでしめた、と頭の中で文章を組み立てていたら、
急に『ホームアローン』のテーマが脳内で再生されて、それがしつこく繰り返されるのだ。
この曲は、なんの曲だろうか、聞いたことはある筈だ、などと思案していたら夢の内容をすっかり忘れてしまって、『記憶に残らない夢』についての文章を考えて始めて、これは面白いと感心していたのに、布団から出て「寒い」と思った途端に忘れた。
今晩のドラマも前回のラストが思い浮かばず、苦しかったし、テーマ曲を思い出そうとするとどうしてもゴッドファーザーになってしまう。そのせいか無性にゴッドファーザーが見たくなってきたが、この感覚も、明日には忘れているだろうか。
入学するはずの高校から出された課題のことも忘れかけていて、少しこれからの自分が不安になったが、このことも一晩寝れば忘れるはずなので安心だ。
とりあえずこの時点でボブ・ディランを聴いていて、『ゴッドファーザー』を見ていたらしい。あとこの二重鉤括弧の感じからしてジョジョを読んでいるのだろう。とにかく鬱陶しい書きぶりだ。
他の日記も引きながら木曜のイベントまでは日記を節約しつつ日記への関心を持続できるかもしれないと考えていたけれど、ろくな文章がないのでもうこれ以上は引きません。きのうの日記を読んで奥さんは「あなたもちゃんと中二病だったんだね」と言った。ね、かわいいね、と返せるくらいには他人のようだけれど、このころの自分のような人を見ると過剰に否認する気持ちがもちあがるところもある。これは、いまだにそういう気があるからなのかもしれない。考えていることやその傾向に代わり映えはなくとも、書き方や勉強の質量によってもっとずっとましなものになる。その手応えは、この十五歳の少年があと十五年くらい生きてようやく得られるものだろう。だから、否認するのはその書き方だけであって、考えていることそのものは否認しようがない。考えていることはよくわかるけど、だからこそその書き方じゃいけないよ、というのを、当時のかれに伝えることはできるだろうか。結構できるような気はする。日記を読む限り、自分への関心でぱんぱんでありつつも、わりあい素直でオープンマインドだったようだから。
本を読むときも、人と話すときも、おおむね僕の態度はあなたの色に染められたいというものだと思う。ただし、記憶力が壊滅的なのと、そこまで義理堅くもないので、水洗いでほとんどの色は落ちる。というか、洗えば落ちるしなーと思っているからこそ気軽にこういう態度がとれる。心底染め上げたいと思っても、ほんと定着しないので困る。まじでなんにも覚えちゃいられない。中三のころからそうだったらしい。
