月曜にカンノさんとシャーク鮫さんと飲んだ。最後は駅前の広場で缶ビールを飲んでいたはずで、そこでだったか、中華を囲んでいる時だったかはもう曖昧だけれど、照れがないとだめなんだという話が出ていたはずだ。
『読書のおとも』でご一緒した奈良原さんが所属している「火を焚くZINE」は、旅行を共にしてそれぞれに文章を書くという作文集団で、日々として日記をそれぞれに同じ場所で書いている。そこでさざさんという人が先日の日記祭での富田ララフネとのトークでの滝口悠生の発言を次のように書いていた。
日記やエッセイとして書かれたものは、その書き手自身の大切な話として尊重されるが、物語を引き受けて書くと、もっとたくさんの読み手にとっての大切な話として受け取られる可能性が広がる。
我々は日記本をつくり続けるべきだろうか?|11月30日(日)さざわさぎhttps://note.com/hiwotaku/n/ne00f2bc464f3?sub_rt=share_b
これを受けて略さんがこう言う。略さんのこともたぶん僕は知らない。のだが、ここでまた、という人、というような書き方をするのはうざったい。略さんは山本浩貴のアトリエ観を参照しつつこう書く。
日記においては単に書き手の身体が投げ出され、それが必然的なものとして肯定されるのだが、物語においては、滝口さんの言葉を借りれば「語り手」の身体が書き手によって提出され、読み手はその形に身体を同期させ(られ)る。(いったん物語としているが、エッセイもいっしょだ)
というか、書かれる「べき」日記を物語と呼ぶのではないか?|12月3日(火) 略箪笥https://note.com/hiwotaku/n/n05b4bc908724
日記と「物語」の違いとは、そこで配置される文字列によって制作される「身体」がどこにあると感覚されるかであり、日記は制作者の身体そのものと見做されるもので、だからこそ固有性を持つ個人の不可侵な身体として《尊重される》。一方で「物語」の身体を大切に尊重する根拠はじつはあまりない。あるのは、それを書いた人がそのような身体が《「あるべきだ」》と自分の責任において価値判断したという一点である。略さんは滝口悠生の《「物語を引き受ける」》をこのような責任と判断のことだと解釈している。そして、テキストの手前側にあるこの身体の固有性から逃れ得ない日記ではなく、複数のテキストと同期し、書き直していく過程で編み直される「私」の居場所である「物語」に可能性を見ている。ところで、僕の日記で「私」と鉤括弧付きで表記される「私」とは何か。以前書いた書評で定義したことがある。
近代日本文学は私小説という形式を獲得し、そこにおいて鋳造された「私」という近代的自我が、現在でもわれわれの内面として先行している。文章表現上に遡及的に表れるこの「私」と区別するために、文章の手前側に存在し、個々の肉体をもつ個体のことを仮に〈私〉と表記することにする。現実に存在するフィジカルな〈私〉は、言語表現によって現れる「私」と重なりつつも、お互いに共有しない余剰もある。
ここで、「私」と〈私〉の差異とは形而上と形而下の対比として整理できるのではないかと考えるのが通例なのかもしれない。しかし『新たな距離』は、そのような単純な二項対立に安住することを許さない。〈私〉と「私」はともに、これは著者の用語法に従えば「アトリエ」に投入される素材として見なされるのだ。「アトリエ」とは、〈私〉と環境とのカップリングであり、〈私〉を形作る環境そのものでもある。〈私〉は〈私〉を素材としつつ、〈私〉と極限まで似ていながらも埋めがたい距離のある「私」を制作する。ある程度の時間をかけて書かれ、書き直される「私」は、すぐさま〈私〉へと循環し、〈私〉を新たな形に作り上げていく。このような〈私〉と「私」が相互に制作し合う場を著者は「アトリエ」と名指し、ここに文章表現の意義を託す。
『新たな距離』書評「週刊読書人」2024年6月21日号掲載
略さんのいう日記は〈私〉に、物語は「私」に対応しているように読めるし、山本さんの態度もこれに近しいように思う。ただ、僕はといえば日記も書かれたものである以上「私」であろうという立場だ。
ところで、ここまで〈私〉と書いてきたものは肉体の内側で完結するものではない。繰り返しになるが、個体はつねに周辺の環境から影響を受けている。著者はこれを〈私+環境〉という語で表している。評者は〈私〉をほぼこの意味で使用してきた。テキストの手前でも奥でもなく。〈私+環境〉の行為としての言葉は、それ自体環境として立ち上がり、私もまた環境によって書き直され、書き足されていく。「世界と私の何重にも掛け合わさったレイアウトを組み直し続けるための、スタイル」(181頁「日記と重力」)としての言語表現。それは、先立つ内面を前提とせず、実生活のあらゆるものを素材として活用しつつも、生活者としての〈私〉とは別個のなにものかを生成するための行為であり、そうした行為を通じて〈私〉を組み替えようという実存をかけた試行でもある。
本書で目指されているのは、生活する〈私〉と書かれる「私」とを安易に同一視するのでもなく、かといって完全に分離するわけでもない、両者の共同制作としての言語表現である。そのような共同制作の場として「アトリエ」が構想される。「アトリエ」はおのおのの生とほとんど区別がつかないため、非常に主観的であるようで、別個体の「アトリエ」を過剰なまでに引き入れることでいくらでも可変的なものでもある。著者の「アトリエ」は、極端なまでに膨れ上がった注釈と引用に満ちている。他者の言語表現を環境として組み込むことでひずませられ、結果的に〈私〉の主観性を超えたものとして仮置きされる「私」。
同書評
いい書評だよなあ。全文にぜひ当たってもらいたい。それはそれとして「火を焚くZINE」でのやり取りを見つけたのは、さざさんと略さんの日記を受けて書かれた堀さんの日記で僕が『随風』に書いたものが引かれていたからで、この日記は十二月四日の朝に公開されたようだから、今日の日記でこの話をするのは嘘だ。まあそれはよくて、そこではこのように読んでもらえていた。
柿内さんは、
・書き手は、個人的な経験を開かれたものとして書くこと
・読み手は、書き手と書かれた対象とをある程度切り離して接すること
といったことを推奨(?)しており、ここでの僕の文章のように、他者に向けて手渡されるものである以上、日記にもおおいに関係のある話だと思う。
(…)そこで問題になるのは、じゃあそうしたことは技術(文章力)によって可能なのだろうか? 心構えとか精神性によるものなのだろうか? その両方なのだろうか? ということだ。
11月23日(日)・12月3日(水)|堀敦詞https://note.com/hiwotaku/n/n6157721972c6
堀さんが抽出してくれたふたつの態度は、生活者としての〈私〉としてベタに現れるものとしてではなく、「私」というテキストとしてテキストを扱おうということだ。これはすべてを〈私〉同士の敵対的なコミュニケーションに回収しないための準備的態度である。読み書きとは、隔たり異なった〈私〉と〈私〉とが、たくさんのズレを孕んだ「私」において制作を共同しうる場である。山本のアトリエを、僕はこのような場として受け取った。書かれた「私」が日々生きる〈私〉と相互に作用していく面白さ。階級や信念や人種の異なった〈私〉たちが、自他の差異を無化しないままに共通の「私」として話ができる場として読み書くテキストを捉えることを僕はしたい。
日記の〈私〉への重力の強さを無視するわけにはいかないだろうが、じっさいそれは技術的にある程度対処できる問題だとも思っている。というか、ベタな〈私〉と解釈されうる場所で、さも〈私〉のような格好で「私」をパフォーマンスするようなことに、個人的な嗜好がある。
ここでちゃんと冒頭に戻るのだが、〈私〉っぽいものを表現するときは、照れがないとだめなのだ。なにが照れくさいって、〈私〉と「私」との異なりであり、重なりである。まったく違うわけでもないが、まったく同じでもない。その据わりの悪さを自覚したうえで、さも〈私〉かのように、あるいは「私」かのように振る舞う。そこには必ず恥があるもので、ないということは両者の距離がゼロになってしまっているわけで、そんなことはありえないわけで、ありえないことをありえるもののように錯覚しているような文章が面白いわけがない。略さんのいう《単に書き手の身体が投げ出され、それが必然的なものとして肯定される》ようなものとは、自分とは異なる〈私〉との邂逅ではあるけれど、じっさいはそこには読むこの〈私〉とのインターフェースとして「私」が必ずあるはずで、この「私」の形式が日記であろうとエッセイであろうと小説であろうと詩歌であろうと、僕は一向に構わないように思える。肝要なのは出会いを担保する「私」をいかに制作するかという技術の話でしかないような気がしていて、文章表現の分類よりも、〈私〉と「私」の間の距離に対する感覚の質を問いたい。僕はその指標は照れなのだと今は名指していて、つまり技術とは照れ隠しだ。照れて、それを隠すこと。隠された照れへの感度というものが、近年はどんどん落ちてきているような気がするが、それは恥知らずもインスタントに感想を発信できるようになったから表面化しただけのことで、つねにそうだったとも思える。
