2025.12.03

月曜にカンノさんとシャーク鮫さんと飲んだ。最後は駅前の広場で缶ビールを飲んでいたはずで、そこでだったか、中華を囲んでいる時だったかはもう曖昧だけれど、照れがないとだめなんだという話が出ていたはずだ。

『読書のおとも』でご一緒した奈良原さんが所属している「火を焚くZINE」は、旅行を共にしてそれぞれに文章を書くという作文集団で、日々として日記をそれぞれに同じ場所で書いている。そこでさざさんという人が先日の日記祭での富田ララフネとのトークでの滝口悠生の発言を次のように書いていた。

これを受けて略さんがこう言う。略さんのこともたぶん僕は知らない。のだが、ここでまた、という人、というような書き方をするのはうざったい。略さんは山本浩貴のアトリエ観を参照しつつこう書く。

日記と「物語」の違いとは、そこで配置される文字列によって制作される「身体」がどこにあると感覚されるかであり、日記は制作者の身体そのものと見做されるもので、だからこそ固有性を持つ個人の不可侵な身体として《尊重される》。一方で「物語」の身体を大切に尊重する根拠はじつはあまりない。あるのは、それを書いた人がそのような身体が《「あるべきだ」》と自分の責任において価値判断したという一点である。略さんは滝口悠生の《「物語を引き受ける」》をこのような責任と判断のことだと解釈している。そして、テキストの手前側にあるこの身体の固有性から逃れ得ない日記ではなく、複数のテキストと同期し、書き直していく過程で編み直される「私」の居場所である「物語」に可能性を見ている。ところで、僕の日記で「私」と鉤括弧付きで表記される「私」とは何か。以前書いた書評で定義したことがある。

略さんのいう日記は〈私〉に、物語は「私」に対応しているように読めるし、山本さんの態度もこれに近しいように思う。ただ、僕はといえば日記も書かれたものである以上「私」であろうという立場だ。

いい書評だよなあ。全文にぜひ当たってもらいたい。それはそれとして「火を焚くZINE」でのやり取りを見つけたのは、さざさんと略さんの日記を受けて書かれた堀さんの日記で僕が『随風』に書いたものが引かれていたからで、この日記は十二月四日の朝に公開されたようだから、今日の日記でこの話をするのは嘘だ。まあそれはよくて、そこではこのように読んでもらえていた。

堀さんが抽出してくれたふたつの態度は、生活者としての〈私〉としてベタに現れるものとしてではなく、「私」というテキストとしてテキストを扱おうということだ。これはすべてを〈私〉同士の敵対的なコミュニケーションに回収しないための準備的態度である。読み書きとは、隔たり異なった〈私〉と〈私〉とが、たくさんのズレを孕んだ「私」において制作を共同しうる場である。山本のアトリエを、僕はこのような場として受け取った。書かれた「私」が日々生きる〈私〉と相互に作用していく面白さ。階級や信念や人種の異なった〈私〉たちが、自他の差異を無化しないままに共通の「私」として話ができる場として読み書くテキストを捉えることを僕はしたい。

日記の〈私〉への重力の強さを無視するわけにはいかないだろうが、じっさいそれは技術的にある程度対処できる問題だとも思っている。というか、ベタな〈私〉と解釈されうる場所で、さも〈私〉のような格好で「私」をパフォーマンスするようなことに、個人的な嗜好がある。

ここでちゃんと冒頭に戻るのだが、〈私〉っぽいものを表現するときは、照れがないとだめなのだ。なにが照れくさいって、〈私〉と「私」との異なりであり、重なりである。まったく違うわけでもないが、まったく同じでもない。その据わりの悪さを自覚したうえで、さも〈私〉かのように、あるいは「私」かのように振る舞う。そこには必ず恥があるもので、ないということは両者の距離がゼロになってしまっているわけで、そんなことはありえないわけで、ありえないことをありえるもののように錯覚しているような文章が面白いわけがない。略さんのいう《単に書き手の身体が投げ出され、それが必然的なものとして肯定される》ようなものとは、自分とは異なる〈私〉との邂逅ではあるけれど、じっさいはそこには読むこの〈私〉とのインターフェースとして「私」が必ずあるはずで、この「私」の形式が日記であろうとエッセイであろうと小説であろうと詩歌であろうと、僕は一向に構わないように思える。肝要なのは出会いを担保する「私」をいかに制作するかという技術の話でしかないような気がしていて、文章表現の分類よりも、〈私〉と「私」の間の距離に対する感覚の質を問いたい。僕はその指標は照れなのだと今は名指していて、つまり技術とは照れ隠しだ。照れて、それを隠すこと。隠された照れへの感度というものが、近年はどんどん落ちてきているような気がするが、それは恥知らずもインスタントに感想を発信できるようになったから表面化しただけのことで、つねにそうだったとも思える。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。