何かを書くとき、この日記だったら僕と指示される行為者が現れるが、これは書かれたものに先行するわけではなく書かれた文字列において事後的に成立する。書くことに限らない。本質的に親切な人など存在せず、親切な行いがあって、それを行った人のことを親切とする。制作した行為によって事後的に立ち現れる「私」が面白くて、書くのも、しゃべるのも、装うのもやっている。たとえば柿内正午として人と会うときは大きな眼鏡にかけ替えてなるべく帽子をかぶる。いわゆる「キャラ」づくりの話として長年考えてきたけれど、よりひろく曖昧に「私」としたほうが今はしっくりくる。日記に作為なんていくらでも満ちているべきだという立場ではいるし、日記を人格の陶冶の手段だとわりあい素朴に肯定的に捉えている。要は、格好つけて書け、書かれた「私」の格好よさにちゃんと似合う自分でいようね、ということだ。
先日のイベントで話題になった丹渡さんとの違いは、後日の書き直しを許すかどうかという点で、僕は書き直しは許さないのだが、それは上記のスタンスと密接に関わっている。間違えたりつまらなかったり下手だったりする日の日記こそ、よりよい明日の「私」の糧とするべきであり、戒めとして残しておくべきだと考える。筋トレをサボったら、ちゃんとサボった記録を残しておけ、みたいな。素朴に保坂和志の即興観に育てられてきてしまったこともあり、そもそも日記は頭から一気に書くことしか自分に許さず、段落や文の入れ換えさえも禁止するという、極端すぎる方法を自分の日記には課しているから、書き直しへの忌避感がひとより過剰に強いのは間違いない。
あと、僕のこの日記は消すべきでも直すべきでもないという感覚は、明らかに安倍政権下に常態化した公文書の改竄や廃棄に対する憤りが基底としてある。公的な怒りを私的な禁欲へと誤変換しているわけで、かなりナンセンスではあるのだけれど。
久しぶりにこんなに日記について考えている。新宿のビキニマシーンの「火を焚くZINE」の即売会に少し寄って、奈良原さん、さざわさん、堀さんとお話しさせてもらう。さざわさんは先日の日記でさざさんと間違ったところで区切ってしまっていた。関心の居所は近しいけれども見てきたものや選ぶ方法が異なるひとたちとのおしゃべりには触発される。さらに色々が明確になった感じがする。じっさい、公文書と日記の関連というのは今日初めて書けたことだし、だからといって出まかせというのでもなく、書いてしまったことでそうだったんだ、と腑に落ちる。即興を鍛えるというとき、その即興は塗り重ねるようにして、書き直すことで練り上げられていくこともありうるのだということこそが、『新たな距離』にまとめられたアイデアの中でいちばんの衝撃だったかもしれない。それを受けてなお、この日記を一筆書きでしか書かない理由が怠慢以外のなにものかであると言い切れるか。言い切れないところがあるかもしれない、などと考えているうちに出てきたのが公文書だった。びっくりした。これはどうせ誇張や脚色だろうし、なんなら嘘だが嘘でも構わない。日記に嘘をかくことにはとくに躊躇いがない。嘘はついてもいいけれど書き直すのはよくない。イベントではこれを倫理と言ったが、そんな話ではなさそうでもある。とにかく一発録りとアーカイブへの妙なこだわりがすごいというだけな気もする。
