世田谷文学館の展示の時に買った石黒亜矢子のクッションの表には「なつ」のカリグラフィと夏毛のしゅっとした猫が、「ふゆ」の面にはもふもふの猫の絵が描いてある。このまえ膝の上で寝ていたルドンをどかすとき、このクッションを身代わりにしたらそれ以来クッションがお気に入りのようで、きょうはとうとう膝の踏み心地を確かめた上でクッションに丸まって寝始めた。きちんと比較された上でクッションに負けた。冬の猫は差し込む日差しを避けるように目元を前足で隠して「なつ」の上で丸まっている。
『エルム街の悪魔』を見て、一九九二年の『キャンディマン』を見て、イーライ・ロスの番組を再開したら今度は『ローズマリーの赤ちゃん』が取り上げられて、この番組は容赦なく映画のトロの部分を見せてくれるので慌てて止めて、明日以降どこかで『ローズマリーの赤ちゃん』を見なくては。これは、いつか見るけど今じゃないなと何年も積んである映画をどんどん見るのにちょうどいい番組なのかもしれない。じっさい、新鮮な気持ちのうちに再度おいしいところだけ抜粋して見返せるので目も鍛えられていい感じ。しかし、見ていないようでけっこう見ているし、見ているようで基本中の基本みたいな作品も見ていないよなあ、と当然のことを思う。プロレスもそうだが、「どのタイミングで出会ったか」「そこから遡るのか、あえてそこを起点にして現在進行形の線を作っていくのか」みたいなところで、勉強のスタンスが色々ある。そして、三十代くらいになると後者のスタンスでもけっこう立派にコンテクストができあがってくるから誰しも勉強の楽しさに気がついていくのだろう。しかし、だからこそこのタイミングで今更なもの、まだ古典じゃないもの、ちょうどダサいもの、ちょうど価値に疑問が付されているもの、いま旬とされるジャンルのすでに乗り越えたとされる方法など、とにかく今じゃなくて、まだ歴史でもないものらにあえて拘泥するのがちょうどいい気がする。というか、自分なりのヘンテコな史観を鍛え上げる年頃だよ。
来週にかけて楽しみな用事が色々あって、前借りするように少しくたびれている。ルドンと一緒に半日以上眠れたらきっと幸せだ。じっさいは多動気味でスリッパをシャワーの水でべしょべしょにした。
