むかし祖母が言った。うちのひとは元気で、山登りした時なんかも振り返りもせずにさっさか歩いていってしまうからわたしが疲れちゃって立ち止まってるのに気がつきもしない。でもあなたはちゃんと振り返って待っていてくれるでしょ。弱さをちゃんと知っている人だね。元気な人はひとの弱っているのに気がつくこともできやしないでしょ。折に触れて思い出す。あるいは、大学の同期が言った。あんたはいつも振り返ってばかりで、いつ前に進むつもりだ。ふたつ目に関しては当時からこう応えていた。個人が好むと好まざるとに関わらず、周囲は勝手に進んでしまうものだから、それにつられて個人だって進んでしまう、であれば振り返って振り返りすぎることはない。
イケてない男の子が成人していきなりオラつくような恥ずかしさを感じてニーチェは読めないできた。いまでもやっぱり恥ずかしい。けれども、いつしか無視できないほどに膨れ上がる自身の力をうじうじ否認するのではなく、素朴に生きる喜びを享受するという態度はかなり大事だとも思う。たとえば、今年の十月の日記。
(…)昔からニーチェにことを、なんかマッチョでキモい、としか思えていなかったけれど、もしかしたら今は読み時なのかもしれない。
繊細さや弱さというものが共感というか、あけすけに言えばアテンションの養分になってしまう状況が数年前からより顕著になっているという感覚がある。端的に「繊細さん」みたいな言葉が流行ったあたりからの居心地の悪さの話をしている。おそらくその反動として、がさつさや強さへの開き直りというか、力への意志がカウンター然として表明されるようになってきている。これは「ていねいな暮らし」がかつて有していたカウンター性を失って抑圧的に機能してしまうという反転とも似ている。そもそも繊細さや弱さを励ますというのは、それらがよくないことだという風潮や構造に対して居場所をどのように確保するかという抵抗の道具であったはずなのだが、いつしか他人からの配慮を強奪する武器のようになる場面が散見されるようになっていく。もちろん大勢としてはいまだに困らされることの方が多いだろうけれど、極端な例が悪目立ちすることでカウンター性よりも抑圧性が際立ち、本来の目的から遠ざかるということが起きてしまっていると見立てている。このように、持たざる立場からなされる価値転倒のレトリックが、抵抗の足掛かりではなく、動員の方法という性格に変容することで、むしろ既存の価値の保守の手法として盗用されていくということは、文化や政治の現場でずっと繰り返されていることでもある。延々と裏返り、裏返されを反復する不毛なルサンチマンではなく、正しい意味で、力への意志を取り戻すべきなような気がするのだけれど、このニーチェ理解が合っているのかもよくわからないので、ざっくりとでもさらっておきたい。面倒なので誰かに教えてもらって済ませたい。とにかく、被害者意識を募らせた方が得、みたいな風潮へのうんざりした気持ちが強い。できることならパワフルに健やかでいたい。陽気でがさつな力持ち、みたいな鈍感さを、ずっと鬱陶しく思ってきたけれど、むしろそうしたものを目指したほうがいい気がしてきている。とはいえ、それを露悪的にやりたいとも思えないし、そもそも弱く困っている人たちをいじめるようなやり方はありえない。静かに淡々と、自己目的的に力を意志すること。それをただやっかみ腐すようなルサンチマンは相手にせず、できることをやること。要は体力や気力の余裕をもって、ひとに親切にしようという、いつもの話になるわけだから、何も変わっちゃいない気もしてくる。 https://akamimi.shop/archives/5038
あるいは、いつか読んだ本。
他人の生を批判し、攻撃し、裁かずにはいられない「病んだ人間」は、今も極めて多い。ウェルズは映画のなかで、そうした「病んだ人間」の様々なタイプを抽出し、陳列してみせている。ではその「病んだ人間」が生を裁こうとする時、彼らは一体何の名のもとにその権利が自分には与えられていると考えるのだろうか。その根拠となっているものとは何か。ニーチェによれば、それは彼らが信じる「善というより優れた価値」であり、〈真理の理想〉なのである。しかし実のところ、それは建前に過ぎない。なぜなら「みずからを病む者」は、背後に、生そのものに対する恨みを、嫉妬を、復讐心を、ルサンチマンを隠し持っているからだ。要するにドゥルーズにとって一切の問題は、「真理」という観念そのものにも、善悪の判断にもなくて、むしろ健康であるか病的であるかという問いのうちにこそある。
自分が正しいと信じて疑わない「真正な人間」は、みずからのうちに「病んだ人間」を隠している。劣等感、嫉妬、羨望、憎しみといった感情を、善や真理の理想によって覆い隠しているのである。この意味で「真正な人間は裁くことに飢えており、彼は生のうちに、悪しきものを、償うべき罪過を見るのである」。すなわちそこには「生そのものを病んだ人間がいる」。──「だが、善や真理といった上位の審級の名のもとに、生を裁くべきではないのだ。そうではなく、反対にあらゆる存在を、あらゆる行為と情熱を、あらゆる価値そのものを、それらがみずからのうちに含んでいる、生との関係において評価すべきなのだ。超越的な価値としての裁きに代わる、内在的な評価としての情動。すなわち「私は裁く」を、「私は好きだ、あるいは私は嫌いだ」によって替えること。ニーチェは、すでに裁きを情動によって替えていたが、読者にこう忠告していた。すなわち善悪の彼岸は、少なくとも、良いと悪いの彼岸のことを意味するのではないと。この悪いとは、疲弊し、退化した生のことであり、それだけにいっそう恐ろしく、広まりやすい。しかし良いとは、噴出し、上昇する生のことであり、それが出会う諸々の力によってみずから変容し、変貌するすべを知っているもののことなのだ。そしてその生は、それら諸力と共に、常により偉大なひとつの力を組成し、生きる力を常に増大させ、常に新たな「可能性」を開くものなのである。なるほど、もはやそのどちらにも真理はない。生成しかない。そしてその生成とは、生における偽の力であり、力の意志である。しかしながら、良きものと悪しきもの、つまり高貴なものと卑しいものはある。物理学者たちに拠ると、高貴なエネルギーとは、変容することができるもののことであるのに対し、卑しいエネルギーのほうは、もはや変容することができない。これら二つの面で力の意志があるのだが、後者はもはや、生の枯渇した生成における支配欲でしかない。それに対して前者は、芸術家であることを欲すること、または「与える徳」であり、迸る生成における、新たな可能性の創造なのである」。
築地正明『わたしたちがこの世界を信じる理由 『シネマ』からのドゥルーズ入門』(河出書房新社) p.104-105 強調原文傍点
とにかく元気でごきげんでいることが大事。このような態度は、しかしすぐさま振り返りもせずにさっさか歩いていってしまうようなものへと転じかねないから注意が必要だ。弱いやつは置いていくという態度は、一見ルサンチマンを振り切っているようでいて、むしろ同じように《病的》に《「私は裁く」》という自身の正しさへの盲信にとらわれている。とにかく元気でごきげんでいること、そのうえで、元気がなくて不機嫌な人を置いて行かないようにする。でも、元気がなくて不機嫌なのを《劣等感、嫉妬、羨望、憎しみといった感情を、善や真理の理想によって覆い隠して》《生のうちに、悪しきものを、償うべき罪過を見る》ようなありかたはさっぱりと拒絶すること。そのようなバランスがなかなか難しい。どうしたって、強弱どちらかの極における勘違いマッチョになりがちだ。《超越的な価値としての裁きに代わる、内在的な評価としての情動。すなわち「私は裁く」を、「私は好きだ、あるいは私は嫌いだ」によって替える》のだ。
ドゥルーズの「哲学」が闘争的なものであるとしたら、それは生がひとつの「素朴な歓び」としてあることを抑圧し妨害するものに対する闘争であるはずだ。だからその「闘争」自体が歓びを抑圧してしまうものであるとしたら、そのような闘争には何の意味もないだろう。(…)
病的なひとたちの建前に過ぎない「善というより優れた価値」などはどうでもよく、とにかく誰もが生を「素朴な歓び」として享受できるようであれかしと願う。それを抑圧するものは、正しいひとであれ、強いひとであれ、弱いひとであれ、賢いひとであれ、やさしいひとであれ、元気なひとであれ、なんであれ、すべて拒絶したい。僕はとにかく、なるべくみんなで素朴に歓びたい。誰かの「素朴な歓び」を否定するすべての身振りを拒絶する。それは楽しくないからだ。素朴さや楽しさを抑圧するものは、だめでーす。
