2025.12.13

むかし祖母が言った。うちのひとは元気で、山登りした時なんかも振り返りもせずにさっさか歩いていってしまうからわたしが疲れちゃって立ち止まってるのに気がつきもしない。でもあなたはちゃんと振り返って待っていてくれるでしょ。弱さをちゃんと知っている人だね。元気な人はひとの弱っているのに気がつくこともできやしないでしょ。折に触れて思い出す。あるいは、大学の同期が言った。あんたはいつも振り返ってばかりで、いつ前に進むつもりだ。ふたつ目に関しては当時からこう応えていた。個人が好むと好まざるとに関わらず、周囲は勝手に進んでしまうものだから、それにつられて個人だって進んでしまう、であれば振り返って振り返りすぎることはない。

イケてない男の子が成人していきなりオラつくような恥ずかしさを感じてニーチェは読めないできた。いまでもやっぱり恥ずかしい。けれども、いつしか無視できないほどに膨れ上がる自身の力をうじうじ否認するのではなく、素朴に生きる喜びを享受するという態度はかなり大事だとも思う。たとえば、今年の十月の日記。

あるいは、いつか読んだ本。

とにかく元気でごきげんでいることが大事。このような態度は、しかしすぐさま振り返りもせずにさっさか歩いていってしまうようなものへと転じかねないから注意が必要だ。弱いやつは置いていくという態度は、一見ルサンチマンを振り切っているようでいて、むしろ同じように《病的》に《「私は裁く」》という自身の正しさへの盲信にとらわれている。とにかく元気でごきげんでいること、そのうえで、元気がなくて不機嫌な人を置いて行かないようにする。でも、元気がなくて不機嫌なのを《劣等感、嫉妬、羨望、憎しみといった感情を、善や真理の理想によって覆い隠して》《生のうちに、悪しきものを、償うべき罪過を見る》ようなありかたはさっぱりと拒絶すること。そのようなバランスがなかなか難しい。どうしたって、強弱どちらかの極における勘違いマッチョになりがちだ。《超越的な価値としての裁きに代わる、内在的な評価としての情動。すなわち「私は裁く」を、「私は好きだ、あるいは私は嫌いだ」によって替える》のだ。

病的なひとたちの建前に過ぎない「善というより優れた価値」などはどうでもよく、とにかく誰もが生を「素朴な歓び」として享受できるようであれかしと願う。それを抑圧するものは、正しいひとであれ、強いひとであれ、弱いひとであれ、賢いひとであれ、やさしいひとであれ、元気なひとであれ、なんであれ、すべて拒絶したい。僕はとにかく、なるべくみんなで素朴に歓びたい。誰かの「素朴な歓び」を否定するすべての身振りを拒絶する。それは楽しくないからだ。素朴さや楽しさを抑圧するものは、だめでーす。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。