カハタレの名古屋公演の告知が出た。『会社員の哲学』の書名が『サラリーマンの哲学』になっていて、昨晩訂正の投稿をした。今朝それを見た奥さんが、憤りが湧く、と言ってくれて、こういうのは代わりに怒ってもらう方がヘルシーだな、と嬉しくなる。タイトルを間違えるのは、まあありがちなミスだし、とはいえ結構いやな気分になるもので、わざわざ自分では怒らないが、誰かに怒ってもらえると助かる気持ちがあるのはたしかだった。なんだろう、軽んじられてるな~と思ったとき、ナメんな、と即座に反応するのがけっこう色々しんどいとか、そもそもそこまで軽んじられてるとかではないんだろうなと察せられるようなとき、即座にキレても、なあなあに見過ごしても、どちらにせよこちら側に負が溜まる。損ねられるプライドが、損ねられたという反応によって事後的に成立してしまうことに対する負の感情がある。こういうとき、そばにいる人が、代わりに狂犬のような振る舞いをしてくれると、まあまあ、などと言いつつ浄化されていく。代わりに怒ってもらうとき、それをまあまあと宥めるとき、そこで生成されるのは、損ねられるプライドではなく、守ってしかるべきプライドになる。やはりこれはとても嬉しくヘルシーなことだ。
学生時代の友人から久しぶりに会おうかと連絡があり、じゃあ他にも声かけようとうきうきやりとりしていたら、「会う時はみんなに優しくしてね。仕事で疲れてるみたいだから」と念を押され、当時の僕はいったいどれほど優しくなかったのだろう。優しくなかったかはわからないが、当時から僕は誰かの代わりにキレ散らかしていた気はする。代わりに怒るというのは優しさだろうか。もしかしたら、誰にとってもそうではないのかもしれない。優しくない、と思われることも多いのかもしれない。奥さんが子供のころ友人たちに、おまえのコミュニケーションはキャッチボールではなく一人で勝手にホームランを打っている、と言われたという話が大好きなのだが、これも似たような話かもしれない。
柚木麻子の「文化系説教ジジイにモテない方法1」というのがBlueskyで流れてきて、モテテクよりもモテ回避が重宝がられるというのは二〇一一年から相変わらずなんだと知れた。これに対して以下のような反応を見た。
事実と一貫性にばかり強いこだわりを抱いている人が男性だった場合、若い頃は空気を読めないキモいやつ扱いで、歳を取るとこの手の説教ジジイ扱いされるという、どう転んでも良い目がないというパターンになる。https://bsky.app/profile/brettspieler.jp/post/3ma5lixjmx22r
これに対してのフォローなのかは判然としないが次のようなものもあった。
下心と説教がなければきっと「話すと楽しい博識のおじさん」なんだよね。https://bsky.app/profile/55naoko.bsky.social/post/3ma5m6ij4i22z
これらを見て思い出したのは、この前お話しした方が言っていたことで、それは「文化やってる人はコミュニケーションがまだ未就学児レベルのことが多いから、文化で会う人とはまず友愛だけやるべきで、性愛みたいな上級生向けのやつは友愛で及第点取れるようになるまでは手を出しちゃダメ」みたいなことだ。
僻みっぽいのってほんとやだよね、というのは本当にその通りだ。そのうえで、《事実と一貫性にばかり強いこだわり》があったり、ベタに文化そのものへの愛ゆえの苦言までもが、「僻み乙」みたいに軽くいなされるのすっごくムカつくよな、というのもわかる。でもまず第一に僻みっぽいのってほんとやだ。そのうえで(無限ループ)
「説教」的な言動をとる必要を感じたとき、それがいくら義憤のように感じられたとしても、やはりそこに僻みはないかはちゃんと検討した方がよくて、だいたいはどうしたってやらしい僻みはあるもので、でも、だから一発アウトなわけでもなくて、たとえ僻みが起点にあったとしても、それを自覚してなるべく抑制して、そのあとの筋がちゃんと通っていればすごくいいものになる可能性はいくらでもある。
自分の恨みつらみの正当化ではないもののために、ちゃんと真剣にこだわって考えるというのはすごく大変だけどとても大事。そうやって粘り強くこだわっているうちに、当初のルサンチマンが乗り越えられるかもしれないから。
やらしい性欲や支配欲や承認欲から始まっていても、それをまずはおくびにも出さず相手を尊重する。そうやって相手のことを真剣に考え続けることで、いつしかよりかけがえのない関係が育まれている、みたいなラブコメが大好きなのも、このあたりのスタンスと響き合うからだろう。『ナナとカオル』とか『やちるさんはほめるとのびる』とか。
