2025.12.19

今年のめちゃおもしろ本『日本語ラップ 繰り返し首を縦に振ること』の中村拓哉がポッドキャスト始めていることに気がつく。やはり面白い。初回の素朴な吐露が染みる。収入に直結しない求道は、とにかく社会的な大したことなさを突き付けてくる、それでもこのようにしか生きられないのだ、という独白に、ベタに胸を打たれる。『日本語ラップ』で提示された理論が語りにもきちんと反映されていて、さらに「ひとりりある」というタイトルを体現しているのが見事だ。老いた批評家がインスタントな言説空間において承認を求めてダサい振る舞いをしてしまうことは、素朴に収入の問題というか、自身の仕事への矜持と社会的な評価のギャップに引き裂かれる悲鳴のようだと感じるのだけど、中村の語りにはいまのところ悲壮感のない矜持だけを聞き取ることができる。

福尾匠の「疎」や、中村拓哉の「一人称」など、資本主義どころかプラットフォーム上に緊密に張り巡らされたネットワークの外部すら想像しづらくなっている現状に対処するための仕事がきちんとなされている感じがして、批評いいじゃーんと頼もしく思っている。勝手に励まされている。

ところで、そのようにしか生きられないということがまったくなかった、というところに個人的な忸怩がある。就職するとき、これで続かなかったら僕には会社員をやる才能がなかったということだ、と試すような気持ちがあったが、果たして続いてしまっている。嫌で嫌で仕方がない社会にそこそこ似合ってしまっている。恥ずかしい。できることなら、そのようにしか生きられない、というような、会社員の才能の壊滅的な「なさ」を持ちたかった、とないことをないものねだりする倒錯した願いを捨てきれないでいる。不適合への憧憬とおそれ。似合うからといって着心地がいいわけではない、ということのほうに注目し、似合ってしまうことと心地が悪いこととを同時に考えなければいけないよな、ということを『会社員の哲学』以来考え続けているが、『会社員の哲学』のころはまだ、自身の似合ってなさへの望みを捨てきれていなかったように思う。いまはもう、認めざるを得ない。恥ずかしいほど似合ってる。そのうえで、きもちが悪いだけ。この二面性を考えるさいに、緊密なネットワークにおけるポジショントークにとらわれていると絶対に間違える。疎らな一人称として書くこと。それをやるにはやはり日記のほかないような気もする。『置き配的』のきのう読んだ箇所に《大局的に見るということと悲観的に見るということはほとんどおなじことである》とあって、そうだなあ、と思う。《同時に局所的で幸運な例外については、それを大局的なものに跳ね返す糸口もないままそこに浸っていても話は進まない。大きな絶望と小さな幸運を繋げる何かが必要だ》(65頁)わかるー。ここで絶望と対置されるのが希望でなくて幸運なのがいい。時代を読むとか、状況を俯瞰するとか、そういう話はどうしたって望みがないから元気をなくすのは当然だ。人気があるというのは混んでいるということで、気が滅入る。見晴らすにしても、空いているところにいる巨人の肩にのったほうがヘルシーであれそうな気がする。自己啓発でも自己陶冶でもいいが、それは個別の体の半端さにそぐうような思考を調達するための、極と極のあいだでの絶え間ない調整である。その実践をたとえば読み書きといい、あるいはおしゃべりという。

これは『内在的多様性批判』を思い出しながら言い直せば、外在的な記述と内在的な参与とを同時にやるみたいなことなのではないか。外部から静的に記述することと、内側にいながら動的に制作することとを対立させずに接続する。異なる認識体系同士を、いずれか一方に包摂するのではないやりかたで、噛み合わないまま共存させることはいかにして可能か。わからない。わからないが、悲観と幸運の両方を見ながら、この個体のもつ偏りにおいて半端に引き受けるほかないように思う。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。